第4話:壊れる
陶子が親元を離れて一人暮らしを始めたのは、今から一年前のことになる。陶子が産まれる前に両親は離婚し、その際のいざこざで、母親は徐々に壊れていってしまった。高校入学を機に家を引き払い、母親は施設へ、娘は単身この町へ。見事な一家離散である。
だから陶子は「壊れる」ということを嫌う。家の食器はすべてプラスチック製か、紙製だ。学校用のローファーは、手に入れて二か月もしないうちに新品に買い替える。皮が破れたり、ソールが剥がれたりするのを見たくないのだ。おかげで生活費は毎月ぎりぎりのようだ。
モノだけではない。人との絆など、その最たるものだ。学校で親しい友達を作らないのも、そういうことだろう。恋人などもってのほかだ。
先ほどのスーパーでの、母子の会話も聞こえていたのだろう。僕が近くにいたあの時でなくとも、子どもは店に入った瞬間から、あるいは入店する前から父親の話をしていたのかもしれない。それをすれ違いざまにでも、耳にしてしまったのだろうか。
昼間にトカゲを踏み潰したのも、猫をあんな状態にしたのも、陶子の仕業だ。
陶子は友情とか、絆とか、家族愛とか、そういうものに触れると我慢ができなくなるらしい。陶子が奪う命を大地に還す。それが僕の使命である。
もちろん僕が陰でそんなことをしているなんて知る由もないのだが。
「そんな残酷なことはやめろ」と、本来ならば陶子の前に現れて説得するべきなのだが、あいにく僕と陶子は赤の他人だ。殺しを止める資格は僕にはない。ならば陶子が奪った命に対して後始末をするのがせめてもの務めだ。
僕も自分の家に帰ることにした。幸い、僕は恵まれた立場で、お金を稼いでくれる父親も、夕食を作ってくれる母親もいる。なので半額で買った惣菜を食卓に並べると、母は露骨に嫌な顔する。食事に不満があるとでも思われているのだろう。
だが違う。僕は陶子と同じものを、同じ日に食べたいだけなのだ。少しでも陶子に近づきたいという想いは、決して誰かに届くことはない。知られてはいけない。特に両親には。
僕と母の二人きりの食卓に、会話はない。反抗期真っ最中というわけではなく、これが僕ら母子の平常運転である。家族の中で賑やかな性格なのは、父だけだ。
正直僕は、この人のことが好きではない。それは向こうもなんとなく察していると思う。だからお互いに相手の深い領域まで入ろうとはしない。十七年一緒に暮らしても、未だに関係はぎこちない。本気のケンカだって一度もしたことがない。でも別にいい。
「……ごちそうさま」
食事を終え自室に戻る。
タンスの奥から、かかと部分の破れた黒ストッキングを引っ張り出した。
「ただいま、陶子」
陶子が街中のゴミ箱に捨てた、使用済み。
顔に押し当てる。大きく息を吸い込み、吐き出す。名前を呼ぶ。それを三度繰り返す。
「……陶子……陶子……陶子……」
陶子の匂いなど、とっくに消え去っている。それでも、数少ない陶子の実用品を手放すことはできなかった。結局のところ僕はこの行為によって、手の届かない存在である陶子を疑似的に感じようとしているにすぎない。いくら空しくとも、今の僕にはこれで十分だった。
深呼吸が終わったら、すぐに元の位置に戻す。こんなものが見つかったら、僕はこの家で生きていけなくなる。
その後、風呂から上がってベッドで自分を慰めた。
くすぶった性欲を発散し、すぐに寝た。
☆ ☆ ☆
日曜日は、久しぶりに陶子を尾行しない一日だった。
休日は陶子のプライベートを尊重する、なんて生真面目な考えからではない。単に法事があったからだ。親戚一同お寺に朝早く集合して、お経を唱えてもらって、近くのレストランで一緒に食事をとって。事が一通り終わって家に着いた頃にはもう夕方だった。本来は受け身の行事なので疲れがたまることもないはずなのだが、父親が面倒だった。
彼は酒が弱いくせに、がぶがぶとビールをあおる。施主としての周囲への気遣いなど欠片もない。おまけに息子に絡むのだから目も当てられない。
「家族はいいぞお」
「お前は俺のことが大好きだもんなあ」
「家庭を持てて本当に幸せだあ」
「男はマイホームと家族を持ってナンボだ」
など、延々と語るのだ。親戚たちはにこやかに接してくれるが、迷惑もいいところだ。
僕がいくらまだ十七歳の子どもであるといえど、両親が秘密を持っていることぐらい知っている。父親は昔、浮気をしていたということ。
今でこそ平穏を保ってはいるが、親族全体を巻き込む大騒動だったという。危うく僕は、施設に預けられる寸前のところまで話がいったらしい。父方の祖母がうまく丸めてくれたおかげでなんとか逃れることができたのだから、感謝せずにはいられない。
母親は親戚を見送るまでずっとニコニコしていたが、きっと今夜は大説教大会が催されるに違いない。息子として僕ができることといえば、夕食を食べたらさっさと風呂に入って就寝することぐらいだ。そして明日からも、素知らぬ顔をしてただの家族として接しよう。
問題を抱えていない家族なんて、きっとどこにもいない。
みんなそれぞれ悩みや不安があって、その上で毎日を必死に生きている。そう考えれば僕は、ずいぶん恵まれた立場にいると思う。だから陶子が生き物を殺めるのを悪と決めつけることなどできないのだ。それが悪である証明など、どこにもない。
単に陶子は僕らよりも一歩先を歩んでいるだけなのかもしれないのだから。
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