第2話:日課(昼の部)
僕にとって陶子は何なのかと問われれば、「すべてである」。
だが陶子にとって僕は赤の他人なのだ。
それは僕に限ったことではなく、周りの人間すべてを無関係と捉えている節がある。彼女は学校で友達も作らず、休日はいつも一人。毎日いの一番に校門から出てくる彼女は、僕につけられていることには気づいていない。
あるいは、バレていないと思っているのは僕だけで、実は陶子は尾行をとっくに知っていて、自分の姿、あるいは私生活を覗かれることに興奮するマゾヒストであるのかもしれない。
現に今、グラウンドでジャージの上着を着ていないのは、陶子だけだ。回遊魚のようにぐるぐるとトラックを回る赤ジャージの群れの中に一人だけ、真っ白なシャツ姿が目立っていた。胸がぴっちりと張り付いている。一歩足を踏み出すたびに、豊満な二つの肉塊が暴れている。
先にマラソンを終えた男子たちは片隅で、回遊魚の行方を目で追っている。敷地の外から眺めている僕とは違い、あの距離なら彼らには陶子が身に着けている下着の色の識別もできているのだろう。今晩彼らは、一つの食卓で同じおかずをつつくのかもしれない。
ぴゅう、と風が鳴る。まったく、季節外れの寒さだ。クリーニングに出そうとしていたコートをわざわざ引っ張り出すはめになった。五分前に買った缶コーヒーはとっくに熱を奪われ、先ほどから僕の体温を奪いにきている。
今時土曜日に授業がある高校も珍しい。おかげで僕はこうして体育中の陶子を観察できるのだけれど。このあとは現代文、化学、数学だったっけ。こないだの席替えで窓際の席になったおかげで、ずっと陶子を眺めていられる。頬杖をつく陶子、立ち上がって音読をする陶子、たまに寝落ちする陶子。午前で授業が終わってしまうのが寂しい。
お昼は今日も駅前チェーン店の定食屋かな。でも先月の土曜日はパスタの方が多かった気がする。同じメニューを注文する身としては、今日はパスタの気分なんだけれど。
十周を走り終えた女子たちは、重力に押しつぶされるように地面に倒れてゆく。その中で一人、陶子は涼しい顔で校舎裏の水飲み場に向かっていった。誰も陶子のことを気に留めようとしない。良く言えば自由だが、悪く言えば協調性に欠ける。おそらく学校では「悪い」方として認識されているのだろう。体育教師もまるで東陶子などはじめからいなかったかのように、集合をかけた。
二時間目、三時間目、四時間目とつつがなく授業は進み、帰りのホームルームが終了する。席を立ってから三分もしないうちに、生徒用玄関から陶子が現れた。校門を抜けたところで十メートル後ろに回り、僕も下校する。
その足で向かったのは定食屋でもパスタ屋でもなく、ハンバーガーショップだった。僕の記憶の中で、陶子が学校帰りにこういったジャンクフードを食べるのは初めてのことだ。いつもは夜遅くか、朝の早い時間帯を選ぶ。しかも今日は土曜日なのに。
案の定、店内は人でごった返していた。午後一時を過ぎたとはいえ、まだ昼食の時間だ。三つのレジの前には行列ができており、入り口の自動ドアは開きっぱなしだ。
スーツを着たサラリーマン風もいるが、ほとんどは家族連れだ。きゃいきゃいと、甲高い声が耳に飛び込んでくる。陶子の顔がみるみる険しくなっていった。こうなることは最初からわかっていただろうに。
さすがにこの行列に一緒に並ぶのはリスキーなので、向かいのコンビニの中から見守ることにした。頼んだメニューは、陶子が席についたところをこっそり後ろから確認することにしよう。
十分ほど待って、ようやく陶子の番になった。陶子はレジの前面に張り付けられていたプレートを指差した。おそらく期間限定のメニューだろう。飲み物は確認するまでもなくホットコーヒー、砂糖・ミルクともに無し。覗き見る手間が省けた。
会計を済ませたのち、店員から茶色の紙袋を手渡される。そして陶子は踵を返し、店を出た。どうやら持ち帰りだったらしい。
そりゃそうか。陶子が土曜日の昼間からこんなところに長居するはずがない。家に帰ってから食べるつもりなのだ。
僕もコンビニから出て、短くなった列の最後に並ぶ。照り玉バーガーセットを持ち帰りでオーダーし、ぴったりの金額を払ってすぐに商品を受け取る。住宅街に入ると、視界の奥に陶子を小さく捉えた。
陶子は足を止め、道路の真ん中に突っ立っていた。
車の気配はないが、この辺りは車両進入禁止というわけでもない。特に土日はこれから主婦が買い物に出かける時間帯だ。
陶子は首を少し前へ傾けていた。
また、あれか。
だからパスタにしておけばよかったのに。
カーブミラーに映る陶子は、変な顔をしていた。
笑っているような泣いているような。目じりを下げ、中途半端に口元を片方だけ吊り上げている。
これまでに何度も目撃した、予兆のようなもの。
右足が上がる。前へ踏み出すというよりも、掲げるような体勢だ。数瞬停止した後、ローファーの底を思い切り地面に叩きつけた。ぱん、とアスファルトに渇いた音が響く。ピボットターンをするように、二、三回右足を地面にこすりつける。そして何事もなかったかのように、再び歩き出した。
角を曲がって姿が見えなくなったのを確認してから、陶子が立ち止まっていたポイントまで一気に移動する。
靴ひものような形状をしたそれは、地面とほとんど一体化していた。表面には土ぼこりが付着して、ところどころに赤い斑点が浮かんでいた。潰れた口から舌が飛び出し、尻尾と左足は千切れている。
「トカゲ……か?」
いかんせん、ほとんど原型をとどめていない。
僕は両手でそれをかき集め、道路の隅に移動させた。
しゃがんだまま、血の付いた手を合わせる。
申し訳ございません。せめて安らかに、お眠りください。
儚く散った命に祈りを捧げて、立ち上がる。角を曲がると、陶子の姿はもうなかった。そのまま直進して、一棟の木造アパートの前で立ち止まる。
三階建ての計六部屋。階段の手すりは錆びついて、壁の塗装もすっかり剥げている。もちろん監視カメラなどという防犯対策は施されていない。女性の一人暮らしにはいささか心配な環境だ。一〇二号室のポストの中身は空になっているので、もう部屋に戻っているようだ。今ごろ着替えを終えて昼食にありついているのだろう。
次に陶子が外に出るのは夕方六時ごろ。スーパーの惣菜半額セールが始まるまでは、掃除洗濯と宿題を済ませるのだ。冷めてしまう前に、僕も公園で食べてしまおう。あそこは野良猫が多いので、ちょうど良い暇つぶしにもなる。
日課、昼の部。これにて終了。
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