先生の様子が、どこかおかしかった。もともと、教師として仕事をしている時以外は、いつも何か重い物を抱え、でもそれを誰にも見せないようにしているような人だけど、今朝はさらに何かに追い詰められているように感じた。けれど、「大丈夫」と言われてしまうと、それ以上踏み込む事が出来ない。この人の硬い肋骨の壁を掻き分けて、心の温かい所に潜り込んで、そこにある傷を撫でていたいのに、冷たくそれを拒まれている気がする。私だからそう思うのだろうか。私以外の誰かなら、もっとこの人を救えるのだろうか。

 朝食は、焼いた食パンにアプリコットのジャムを塗って食べた。先生が淹れてくれたコーヒーには、たっぷりのミルクを入れて。

「私はいつまでいていいんですか?」

「妻はいつも実家に帰ると、あちらの家族とドライブしてくるんだ。夕方くらいまで大丈夫だと思うけど、帰りたい時に帰っていいよ」

 考えすぎかもしれないけれど、その言葉に冷たいものを感じ、思わず視線を落とした。日当たりのいい部屋に、朝の陽が光線のように差し込んでいる。この部屋はとても静かだ。

「部活はもう、立ち回りを入れてるんだよな」

 先生はまっすぐ私を見て聞いた。彼の心に、私は欠片でも存在しているのだろうか。

「はい。先週からやってます」

「どうだ、実際やってみて」

「やっぱり最初は恥ずかしかったです。見知っている先輩達の中でも。声で演じるだけとは随分違いますね。セリフは決められているけど、動きは台本に書いてないので、自分で考えないといけないし。どうしても動きが小さくなってしまって、田中さんに指摘されました」

「そうだな。舞台の上では、少しやり過ぎくらいの身振り手振りがちょうどいいから。特に今回は人物が西欧系だからな」

「はい」

 パンを齧ると、じゅわりと甘みと酸味が舌を撫でる。こんなに当たり前の明るさの朝食は、思えばひさしぶりだ。

「部活、やっていけそうか?」

 躊躇いや遠慮、そういったものを感じる声で、そう聞かれた。

「はい」

「そうか、よかった」

 彼は柔らかく笑った。それは教師の笑顔だった。

 滲む涙を、俯いて隠した。


 ***


 夕方まで大丈夫と言われたけど、お昼前には帰る事にした。彼は玄関までしか見送ってくれなかった。仕方ない事だけれど。

 今日は空は爽やかに晴れて、淡い青が所々にちぎれた白を浮かべて広がっている。小さな鳥が二羽、じゃれ合うように羽ばたいて飛んで行った。友達、恋人、家族、どれにせよ、誰かが傍にいるという事に、彼らを羨ましく感じる自分は、生き物として大分劣っているのかもしれないと、ふと悲しく思った。

 スーパーで食料品を買い、アパートに帰ると、当然だけど孤独が口を開けて待っている。昼の光で部屋は明るいけれど、黒い靄のような曖昧な塊が部屋の中で淀んでいるような気がする。窓を開けて空気を通し、洗濯をした後、野菜を炒めて焼きそばを作った。ここは東京の外れなので高い建物は少なく、古いアパートの二階の部屋でも窓から空が見える。網戸を通して入る冬の冷たいそよ風がレースのカーテンを揺らす中、一人で味気ない焼きそばを啜った。この辺りはいつもそうだけど、休日なのに不思議なほど静かだ。小さい子供がいないのだろう。

 午後は、近付いてきた期末試験の勉強と、息抜きの台本読みに時間を費やした。「やる事がある」というのは、本当にありがたい。無趣味な私は、自由に使っていい時間の中に一人放り込まれると、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。だから、彼のした事はどうあれ、演劇部に入れて「やる事」を与えてくれた事には感謝している。去年の春からここに住み始め、高校に入学して暫くは、あの家から解放された事は嬉しかったけど、この部屋が私に無言で押し付けてくる暗い寂しさに取り込まれる事を恐れて、でも外に出て人に会う事も怖くて、ひたすら眠る事しか出来なかった。日中帯に眠ってばかりいると夜に眠れなくなり、頭まで布団をかぶって数少ない楽しかった事ばかりをひたすらに思い浮かべていた。気を抜くとすぐに忍び寄る、頭蓋骨ごと破壊してしまいたいどろどろに汚れた記憶を、少しでも近付かせないように。楽しい事ばかりを何度も何度も繰り返し思い出しているのに、そんな時はなぜかいつも涙が止まらなかった。


 世界史の試験範囲をノートに整理していたら、部屋が少し暗くなってきたのを感じた。時計を見ると、夕方の四時半。今朝まで私がいたあの部屋には、もう奥さんが帰っているだろうか。冬は、暗くなるのが早くて、好きじゃない。暗さや寒さは、そのまま寂しさに直結して私の心を貫いてくる。立ち上がって窓辺に移動し、急速に暮れて衰えていく光の中で洗濯物を取り込んでいると、自分が何のために生きているのか、分からなくなってくる。全て投げ出してしまいたくなる。手が震えて呼吸が乱れる。

 冬の空気に乾燥した洗濯物を床に落とし、しゃがみ込んでそこに顔を埋めた。それが救いの手じゃなくてもいいから、欲望でだっていいから、私を求めて欲しい。彼に手を伸ばしてもらっていないと、もう私は私を保てない。

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