いつも海の底にいた。暗くて冷たいのに、青くて綺麗だった。仄かに差し込む光が、ゆらゆらと揺れていた。ずっと泣いていた。海は涙で出来ているのだと、思った。歩いても歩いても、どこにも行けなかった。吐く息は泡になって立ち上り、取り込める酸素はなくて、苦しくてしかたないのに、いつまでも、死ねなかった。

 ――コトリ、と、何かが落ちた音がした。


 ゆっくり眼を開けると、早瀬がいた。僕の方を向いて静かに眠っている。カーテンを通して部屋に差し込む朝の光が、彼女の黒い髪を滑らかに輝かせていた。僕の枕が涙で濡れていた。

 早瀬を起こさないよう静かに仰向けになり、ゆっくりと深く、肺に酸素を送り込む。そしてゆっくりと細く、肺に残っている夢の澱を追い出すように、息を吐く。それを三回繰り返してから、そっとベッドを降り、眠る早瀬を見下ろした。僕は、過去を、この人に重ねているのだろうか。この人だけでなく、妻や、学校や、生徒や、世界、全てのものに。

 リビングのエアコンを付け顔を洗ってから、電気ケトルに水を注いでスイッチを入れる。玄関に移動し扉の郵便受けを開け、中の物を左手に掴んでまたリビングへ戻る。その途中、郵便物を掴む手から一つの白い物体が零れ、パサリとフローリングに落ちた。見覚えのある、飾り気のない白い封筒だ。既視感が火花のように脳内を走った。

 右手でそれを拾い上げると、「石田麻希」という文字が目に入る。耳に聴こえそうな程、鼓動が強く鳴った。裏返し、宛先を見ると、このマンションの住所、そして、「高岡俊」……僕の名前だ。左手に持っていたものをテーブルに投げ置き、僕は破るように封を切って中の物を取り出し広げた。


 拝啓 高岡俊様

 突然の手紙をお許し下さい。そして、誤配送によりご迷惑をおかけした事、深くお詫び申し上げます。

 戻るはずのない手紙を出し、それに返事が来た事には驚天動地の思いでしたが、頂いた御返事を拝見するにつれ、高岡様の温かな御心遣いが染み入り、この紙片が行くべき場所を誤ったのも、運命の巡り合わせなのではないかと心より感謝致しております。

 この手紙につきましても、お詫びと感謝の気持ちをどうしてもお伝えしたく、再びの御迷惑をお掛けするかとも思いながらしたためております。御不快でしたら、どうかお許し下さい。切り破って捨て去って、私の事など忘れて下さい。

 それでは、余寒なお去り難き折、風邪など召されませんようご自愛下さい。

 敬具

  石田麻希


 読み終えてから、自分が息を止めていた事に気付き、慌てて呼吸を再開する。日々の中で忘れかけていたが、まさか、返事が来るとは。鼓動が煩いくらいに高鳴っていた。先週、誤配により受け取った手紙にあったような、心を絞り出すような、悲痛な叫びのような文体ではないが、丁寧な文字で綴られた言葉は、疑いようもなく、僕に宛てられたものだった。

 錆ついて軋みながら、終わりへ向かう為の緩やかで一定のリズムを刻んでいた日常の歯車が、別の力を得て急速に動き出すのを感じた。この感覚だ。これだけが、僕を過去から引き剥がす。無意識に口角が釣り上がるのを抑え切れない。

 足早に書棚に歩み寄り、雑多な物を入れている引き出しを開け、封筒と便箋を取り出した。胸に開いた穴が痛みを伴いながら、今日届いた手紙に黒い腕を触手のように伸ばしている。石田麻希は、先週偶然僕の元に届いたあの叫びについて、「戻るはずのない手紙」と書いている。その傷を、もっと僕に見せてくれないか。

 椅子に座りテーブルに新しい便箋を置き、文面を考えていると、背後で引き戸が開く音がした。

「おはようございます、先生」

 振り返ると早瀬が立っていた。肩まで伸びる黒髪は少し寝ぐせが付いており、まだ眠そうな虚ろな顔をしている。

「ああ、おはよう」

 左手でそれとなく便箋を片付けながら答えた。

「何してたんですか?」

「いや、何でもないよ。顔を洗ってくるといい。洗面所の場所は分かるよな」

「はい。お借りします」

 早瀬はスリッパをペタペタと鳴らしながら洗面所へ向かって行った。僕は立ち上がり書棚の引き出しを開け、書きかけの便箋と、今朝届いた石田麻希からの手紙を仕舞う。この部屋に誰かがいる時は、これは書けない。

 テーブルに視線を戻し、コーヒーを淹れるために沸かしていた電気ケトルのお湯が、忘れられてすっかり冷めている事に気付いた。スイッチを入れ直し、左手で目元を覆い深く息を吐く。心に湧き上がってくる冷静さが、自分の行為をグサグサと責めていく。

「分かっているさ、自分の危うさは」

 でも手を伸ばさずにはいられないんだ。傷付く人は見たくない。いや違う。傷付く人に、縋り付いて欲しい。いや、違う。償いたいんだ。贖いたいんだ。その為に、もっと僕に傷を見せてくれ。違う、違う、もう僕に傷を見せないでくれ。いや、違う! 違う!

「先生、大丈夫ですか……」

 早瀬の声がした。気が付くと、左手で目元を押さえたまま、背中を丸めて右手をテーブルについていた。呼吸が乱れていた。電気ケトルがお湯を沸騰させ、ゴポゴポと音を立てていた。

「あ、ああ、大丈夫」

「本当ですか? 私には、嘘をつかないで下さい」

「大丈夫だよ」

 微笑んで、リビングの入口に立っていた早瀬の元に行き、彼女を抱き締めた。妻が使っているシャンプーの匂いがする。早瀬の手が僕の背に添えられた。

 早瀬の髪を撫でながら、彼女が言った一つの単語が、頭を占めて行くのを感じていた。

 嘘。

 嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。

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