金曜の授業と部活の後、仕事を終えた先生を待った。私のアパートに自転車を停め、準備しておいた荷物を持ってから、彼のマンションに向かった。レンガを積み上げたような落ち着いた色の外壁が、電灯に照らされている。前にも一度、奥さんが不在の時に訪れた事があるけど、外装も、エントランスも、温かみと落ち着きを感じさせる色合いをしている。

 リビングで映画を見ながら、二人で宅配ピザを食べた。私が料理を作ると言ったけど、先生はそれを許可しなかった。私が台所に入る事で何かの痕跡を残す事を避けているのかもしれない。映画は、有名な音楽家の悲劇的な人生を描いたものだった。あまり面白くなかった。終わってから、あまり面白くなかったねと、二人で言って笑った。

 先生は、あまり多くを喋らない。順番にお風呂に入った後は、リビングのソファに二人座って、BGMとして先生が流した音楽を、何となく聴いているだけだった。私もお喋りな方ではないので、沈黙は苦ではない。寧ろ誰かがいる部屋に自分もいるという感覚が、心地良かった。左隣に座る先生の肩に頭を乗せると、彼の右手が私の肩に回された。このまま、緩やかに時間は過ぎた。どちらかが「寝ようか」と言うのをお互いにただ待つような、不思議な時間と空気だった。

「先生は」

「ん?」

「どうして先生になろうと思ったんですか?」

 特に何かの意図がある質問ではなかった。穏やかなオレンジ色のルームライトの中、お風呂上がりの温かな余韻が身体を取り巻いて、優しい眠気が眼の周りを舞う気だるい気持ち良さのまま、先生と何か会話をしてみたかった。

「そうだな」

 彼は暫く黙った後、溜息のような長い吐息を吐いた。

「初めは、監視と、復讐だった」

「え?」

 彼はぼんやりとした口調で話した。

「でも今は、贖罪と、埋め合わせ、かもしれない」

 彼はまだ、その傷の正体を話してくれない。過去に何かがあった事くらいは、人間としての危うさも孕んだその言動から読み取れる。でもそれが何かは、私から聞き出すものではないと思っている。いつか話してくれたら、ゆっくりと受け止めて、この人を抱き締めよう。その時が、私達の鎖が完成する時だと思う。

「先生」

「ん?」

「寝ましょうか。眠そうな話し方してます」

「ん、ああ。早瀬は、もういいのか?」

「何がです?」

 首を曲げ彼の顔を見たら、目を閉じていた。ヒゲの剃り残しが二本頬にあり、それが何だか愛おしく感じた。彼はゆっくりと、夢の中にいるような口調で答える。

「学校じゃあまり話せないから、話したい事があるなら、話していいんだぞ」

 自分の家、優しい光、穏やかな音楽、心地良い眠気。これらがそうさせるのか、先生は普段見せる気負いや緊張の空気を纏っていなかった。リラックスしきっている。それが何だか嬉しく感じて、先生の胸元に顔を埋めると、彼の手がふわりと自然に私の体と頭を抱きとめる。先生のゆっくりとした鼓動が近くに聞こえる。

「今、十分満足しています」

「そうか、よかった」

 やっぱり、この人は優しい。それが、今耳を当てているこの胸――今も彼の体に血を送り続け、彼に温度をもたらしている心臓と、心――についた傷から流れ出るものだとしても、それは何よりも私を温めて満たしてくれる。そして私も、この人の傷を温めて、満たしてあげたいと思う。


 二人で寝室に行き、二人で先生のベッドに入った。彼は私の体を求めず、私も彼を求めなかったけど、暖かな幸福が胸に満ちていた。明日になればこの温もりから切り離されるけれど、今だけは、何の欠落もない、満ち足りた気持ちで眠れる気がした。リップも塗っていない乾いた唇を、先生の色の薄い唇に押し当てると、彼は右手を上げて私の首を押さえた。このままでいてくれ、という意思。私達はそのまま、お互いの傷をゆっくりと重ね合わせるような、長く静かなキスをした。今なら、この部屋以外の全てが真っ黒の世界でも、構わない。

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