チョークを置き、呼吸をひとつ。

 教室には、エアコンが発する暖かな空気が満ちていた。窓から覗く外の景色は、寒々しい冬の色を湛えている。生徒達の顔を一通り見渡した後、チョークの粉っぽい匂いのする乾燥した空気を吸い込み、僕は口を開く。

「今書いたように、クライマックスというのは、事件の収束でも華麗な情景描写でもなく、それまでの因縁や問題を打ち砕き、解決や昇華をする、たった一つのセリフにあるんだ。そこにポイントを置いて、物語をもう一度眺めてみる事で、主題が見えてくる。主題が見えると、他の文章にもより深い意図が隠されている事が見えてくる。分かりやすい例で見てみよう。さっき配ったプリントは、志賀直哉の『暗夜行路』の抜粋だ。この文章の中から、クライマックスとなるセリフを見つけて、線を引いてみてくれ」

 生徒達が視線をプリントに落とし、静かにそれを読み始める。僕は机の間を歩き、眠っている生徒の肩を叩く。個人的には、やる気のない生徒は相応に置いていかれて後で自業自得の泣きをみる事になるので、放っておいていいと思うのだが、担任となってからはそうもいかなくなった。「教える事」だけではなく、「脱落させない事」が責務となってくるからだ。

 教室をゆっくり一回りした後、教卓に戻る。早い生徒は、もうシャーペンを机に置いて頬杖を付いている。全員の進み具合を見渡していると、教卓から見て右端、窓際の列の中間の席に座る早瀬と目が合った。すぐに視線を逸らしたが、早瀬の目はまだ僕を捉えている。昨日の夜の事が思い出され、罪悪感が襲い来る。早瀬や妻だけでない、全てに対する罪悪感だ。こんな人間が教壇に立っている事、担任として目の前の生徒達を受け持っている事、この世界にこんな僕が生き続けている事の、罪。魂を過去に掴まれながら、身体だけが前に歩いているというのに、光の中を未来に向けて歩くこの若者達に、偉そうに教鞭を取っている訳だ。滑稽だ。

「うん、そろそろみんな出来たかな」

 まだシャーペンを持ったまま机に向かっている者もいるが、手も目も動いていない。考える気がないのだろう。全員の完了を待っていたらそれだけで授業が終わってしまう。

「じゃあ四人毎にグループを組んで、どこをクライマックスとしたのか話し合って、グループ内で結論を出してくれ。当てずっぽうじゃなくて、どうしてそう思ったのかの理由も話してくれよ」

 初めは少し躊躇いを見せた生徒達だったが、やがて向かい合ってガヤガヤと話し合い始めた。

「意見がまとまったら、プリントの裏にグループの結論と根拠を書いてくれ。最後に集めるからな」

 まだクラスメイトに打ち解け切れていない早瀬の恨めしそうな目が僕を見ていたが、気付かないふりをする。悪いとは思うが、早瀬の為だけに授業をする訳にもいかない。


 ***


 昼休み、職員室で弁当を食べていると、数学の若木先生に声をかけられた。

「高岡先生、今日も愛妻弁当ですか?」

 彼は同校の後輩で、今年度から教師として赴任している。

「まあ世間的にそう呼ばれるものだ。愛があるかは分からないけどな」

「またまたぁ。朝早く起きてこんなちゃんとしたお弁当作ってくれるんだから、愛が詰まってるに決まってますよ」

 こんな話をしていると、またあの人が来るだろう。生物の水野先生が。

「高岡先生のお宅はご夫婦で仲がよろしくて羨ましいですね」

 少しハスキーな声でそう言いながら、いつもと同じ白衣を着たショートボブの水野先生が、予想を裏切らずに近付いてきて僕の手元の弁当を覗き込んだ。彼女の口元から、さっきまで啜っていたらしいカップラーメンの匂いが漂う。

「ええ、おかげさまで」

 若木は早々に自席に戻っている。逃げたか。

「ケンカなんかもされないんでしょうねぇ」

「そうですね。結婚してから、ケンカというものを一度もした事がないかもしれません」

「ほっほっほ」

 水野先生は手で口元を隠し、三十代の女性とは思えない老人のような笑い声を出すと、続けた。

「羨ましいこと。でもそれって、どちらかが本音を出してないって事じゃないんですかねぇ」

 顔に貼り付けていた愛想笑いが消えそうになった。悪意のある言葉が、不思議な程ストンと心に落ちた。なるほど、と、思った。

「はは、手厳しいですね。相性が良いという可能性をお考えになられないとは」

「そうであれば宜しいんです。式にも呼んで頂いた手前、幸せそうなお二人が破局なさるのは、出来れば見たくありませんからね」

 何年前の話を引き合いに出すのだろう。自席に戻っていく水野先生を見送り、様子を伺っていた若木に苦笑いを見せると、弁当に手を戻した。

 どちらかが本音を出していない、か。確かにそうだ。妻はどうか知らないが、僕は彼女に本音というものを出した事がないかもしれない。穏やかな関係を崩さないように、彼女を傷付けないように、苛立ちも不満も飲み込んで胸に押し込め続けていた。それはきっと、正しい夫婦のあり方ではないのだろう。だが今更本音など出せないし、出し方も知らない。そもそも、自分自身の本音というものが分からない。

 弁当箱に詰められた惣菜を一つ箸で持ち上げた。アスパラを包んだ豚肉に、片栗粉でとろみを付けたタレが絡められている。昨日の夜に下拵えをしていたものはこれか。

 僕がいつの間にか本音を出せなくなったのは、妻を信じていないからかもしれない。僕が何かを言えば、彼女は傷付き、僕を嫌いになる。そう考えているからかもしれない。こんな手のかかる料理を作ってくれる彼女を、一番身近な人間である彼女を信じられないなんて、どこまで愚かな人間なんだ僕は。

 目を閉じると、冷たい夜の中一人佇んでいるような気持ちになる。誰が傍にいても、僕は一人なんだろうか。瞼を閉じたまま冷え切った豚肉を前歯で噛み切っても、温かみを感じる事はできなかった。

 早瀬に、寄りかかりたくなった。

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