天井の豆電球が落とす弱い橙の明かりの中、電気ストーブが吐き出す温風の音だけが響いている。

 私の体にかかるのは毛布一枚だけだけど、私を抱く彼の熱で、寒さは気にならない。終わってから、先生はずっと私を抱き締めていた。床に向けている右側の首の下に彼の左腕があり、私の左腕の上に彼の右腕がある。彼の両手は、少し苦しいくらいの力で、私の背中を押さえつけている。誰かに所有されるという事の喜びが、皮膚に直接触れられている事の安心が、脳を甘く麻痺させる。私には居場所があるという確信を、与えてくれる。幸せというものは、何かの事象や事実を指すのではなくて、脳が産み出すこの優しく痺れるような感覚の事だけを言うのではないだろうか。例えそれが、錯覚だとしても。

 胸に彼の鼓動を感じる。額に彼の呼吸を感じる。僅かに滲んだ二人の汗が、吸い込む空気に湿度を与えている。もうどれくらいこうしているだろう。

「先生、寝てます?」

「起きてるよ」

 返事はすぐに来た。囁くような声だった。

「何を考えているんですか?」

 今度は数秒の沈黙。

「早瀬の事だよ」

 その言葉に微かに胸が躍ったけれど、次の瞬間にはそれが彼の本当の言葉ではない事が分かってしまうくらいには、私は彼の孤独を知っている。私だから、分かるのかもしれない。

「今日、部活が終わってから、三浦さんにこっそり言われたんですよ」

「何て?」

「詩織さんって、高岡先生の事好きなの? って」

 声にならない動揺が、彼の喉元で呼吸を乱したのが分かった。

「……どう、答えたんだ?」

「やだなあ、そんなわけないじゃないですかあって、言っておきました」

 今度は安堵が、彼の口から吐息と共に漏れ出た。これだけ身体を押し付け合っていると、心の表面まで伝わるのだろうか。私が何を考えているか、彼も分かっているのだろうか。

「そうか」

「生徒とこんな事してるってばれたら、先生はもう社会人としてお終いですもんね」

「そう、だな」

 私の強力なカードが、ここにある。これがある限り、先生は私を最低の形で切り捨てる事は出来ない。でも嫌われたくはないから、このカードは簡単には使わない。彼の心を揺さぶりながら、彼が私にしたように、彼の心臓にも鎖をかけようとする私の意地汚さを、目を閉じ今は見えない所に追いやって、甘い痺れに身体を委ねる。

「今日はこのまま、泊っていって下さい」

「それは、さすがに無理だ」

「私を一人にするんですか?」

「いや……」

「冗談です。分かってて言いました」

 私が求めれば、この人は喜んでくれる。そして、私の求めに応じられない時に、苦しんでくれるのも知っている。私の背中に回された先生の手が、少し強められた。

「今週末、妻が実家に帰るらしいんだ」

「へえ、そうなんですか」

「その時で、よければ」

「何がですか?」

「またうちに、遊びに来ないか」

 冷たいようで優しくて、優しいようでいて何よりも残酷。そんなのが、私の好きになってしまった人だ。そしてこの人だけが、私の傷を埋める事が――埋まらなくとも、忘れる事が出来ると、私に寄りかかるこの人に、私も寄りかかっている。

「はい、行きます」

 私がこのままでいる限り、きっとこの人は私の手を離さないでいてくれる。私から手を離した方が、私やこの人にとってはいいのだろう。でももう、私を掴んだ暖かい手を振り払って、あの冷たい場所に戻るなんて、とても出来ない。だから私は、苦しくても、繋いだこの手に、鎖をかける。


 ***


 先生を見送った後、汗で冷たくなったシーツを替え、シャワーと食事を済ませる。一人で食べる夕食は、心がパサパサとして、味を感じない。さっきまで誰かがいて、そしていなくなった部屋の、冷たさ、音のなさ、色のなさ。それが静かに私を圧迫してくる。六畳しかない部屋は小さな電気ストーブでもすぐに暖まるけれど、心の底はしんしんと冷えていく。自分を俯瞰して、視点をどんどん遠ざけていくと、この部屋だけにぽつんと明かりが灯り、それ以外は何もない真っ黒な世界なんじゃないかと思えて、叫んでしまいそうになる。

 前は――高岡先生とこんな事になる前は、一人でいる事が当たり前で、それ以上なんて求める事も、考える事もなかった。でも私はもう、温かさを知ってしまった。もう戻れない。もう一人には、戻りたくない。

 台本を持って布団にくるまり、シナリオの世界に心を投じる。明日からは読み合わせだけではなく、動きも加えられる。立ち回って、身振り手振りをして、表情も動かして、全身で物語を綴る。

 自分が演じる人物の視点になって、場面ごとにどう感じているのか、どんな思いなのか……そんなのは、胸が痛むくらいに、何度も繰り返し想像している。彼にこそ、言ってやりたい。彼の言動の一つ一つに、私がどう感じているのか、どんな思いなのか、一度考えてみるといいよ。

 手を差し伸べ、すくい上げ、抱き締めてから、踏みにじる。手を繋ぎながら、突き落とそうとして、けれど決して手を離そうとしない。その行為が、どれだけ残酷な事か。

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