早瀬は、いい声を持っている。これは僕の醜悪なエゴを除いても、彼女を演劇部に誘った理由の一つでもある。澄んだ水のような透明感の中に、触れるだけで消えていきそうな脆さ、儚さ、危うさがある。そして、その中でも時折垣間見せる「強さ」も。

 何か部活に所属させるという目的なら、合唱部という選択もあったかもしれないが、この声の良さは単独で発せられなければ潰されてしまう。それに演劇というものは、内向的な人間に向いているらしい。僕もそうだったが、普段自分を押し込めているからこそ、自分以外の存在になりきって想いや言葉をぶちまけるという行動に、快感を感じるそうだ。実際プロの役者にも、素の姿は演じている姿からは想像できないような大人しい性格の人間が多いと聞く。

 早瀬も、初めのうちは部の活動や二年の先輩達との交流の全てに躊躇い、遠慮し、恐れているようだった。だがその姿が可愛い後輩として魅力的に感じたのか、田中達も彼女をよく構った。演技や練習に手を抜かないメンバーに戸惑いながら徐々に馴染むにつれ、次第に声を出すようになっていったようだった。今は、クラスでも時折女子生徒と会話を交わすようにもなっているようで、教師としては安心しつつ、個人的な胸中には、自分の手を離れていかないかという不安も微かに存在している。

 久しぶりに顔を出した演劇部の多目的教室で、腕を組んで扉に寄りかかりながら、彼女達の読み合わせを聞いていた。田中は一番の経験者だけあって安定している。今回のシナリオのライターでもあるから、当然セリフ運びの意図も把握している。だから感情も出しやすい。作者故の遠慮なのか出番が控えめなのが残念ではあるが。藤野は、本当に演技の幅が広い。前回の台本の時とは真逆の雰囲気を持つマリア役だが、難なくこなしているし発話も自然だ。知人の大学の演劇サークルにも顔を出しているらしいから、鍛えられているのだろう。ただやはり、小柄な体型が、与えられる役の幅を大きく狭めてしまっている。これは仕方のない事だが、もったいない。三浦もかなり上手くなった。滑舌にまだやや不安があるが、男役が板についてきたのだろうか。

 早瀬は、鈴のような、清流のような声でセリフを読む。やはり彼女の声を活かせるのは、躊躇わせない明確なセリフが用意されている演劇だ。ただ、まだ慣れていないのか緊張があるのか、言葉に固い印象を受ける。

 読み合わせが終わった後、普段の参加率が低い事の詫びも兼ね、顧問としてアドバイスをすることにした。

「早瀬、自分が思うよりも、もっとゆっくり喋ってみろ。舞台においてセリフが聞き取れないという事は致命的だから。丁寧に発音してるつもりでも、人からしたら意外と速く聞こえてしまうものだし、無意識にだんだん速くなってしまったりもするんだ」

「あ、はい」

 早瀬は素直に頷いた。

「あと、出来ればもっと声に感情を込められるといいな。自分が演じる人物の視点になって、場面ごとにどう感じているのか、どんな思いなのかを一度想像してみるといいよ」

「……はい」

 今度は不服そうな顔をした。三浦が責めるような目で僕を見る。

「先生、詩織さん今回、先生が来るまですごく良かったんですよ」

「え、そうなのか?」

 そこに藤野も口を挟んでくる。

「そうですよー詩織ちゃんどんどん上手くなってるんだから、邪魔しないで下さいセンセー」

「そうか、悪い」

「いえ……」

 早瀬は俯いた。やはりたまに出しゃばってきて偉そうな事は言わないほうがいいようだ。


 ***


 演劇部の解散後に残っていた仕事を片付け、校舎を出ると、早瀬がいた。

「先生、お疲れ様です」

 月明かりに照らされ、鼻や頬が寒さに赤らんでいるのが分かる。

「今日は送ると言ってないだろう。待ってなくてもいいのに」

「私を一人にしないって、言ったじゃないですか」

 胸に心地良い痛みが走る。求められている事の実感が、僕という存在が世界に落とす影を、濃くするような気がする。

「他の先生から早く帰れと言われなかったか?」

「高岡先生以外の時は、隠れてました」

 溜息をつくと、白く濁って空に昇る。この寒い真冬の夜、何時間ここで待っていたのだろう。

「待ち伏せされたのなら仕方ないな。行こうか」

「はい」

 早瀬の笑顔は、いつも儚げに綺麗だった。派手さはないが、細めた眼にかかる睫毛はしなやかに長く、元々の顔立ちの良さに、その生い立ちがかける影が、魅力を引き立てているように思える。本人は無意識なのだろうが、彼女はいつも、眉を下げて困ったように、遠慮がちに笑う。

 走って自転車を取りに行った早瀬が息を切らして戻って来るのをぼんやりと眺め、坂へ向けて足を踏み出した。すぐに隣に彼女が追い付き、息を整えている。僕はどうしたいのだろうか。寂しがる早瀬を満たしてやりたいのか。自分の存在を確かめたいのか。

「先生、月が綺麗ですよ」

 自転車を押しながら上を見上げる彼女の視線を追うと、漆黒の空に少しだけ膨らんだ三日月が、冷たく静かに浮かんでいる。

「ああ、冬は空気が澄んでいるからな」

「今日も、部屋に入ってくれます?」

 一人にさせない、という言葉は、一人にしないでくれ、と同義だ。震える人を温めたいと思うのは、僕が寒くて仕方ないからだ。落ち込む人に手を伸ばしたいと願うのは、寂しい僕の手を取っていて欲しいからだ。

「……そうしようかな」

 早瀬が静かに微笑み、三日月から視線を落とした。僕はポケットのケータイを取り出し、妻に遅れる旨のメールを打つため、指を動かす。

 結局は僕は、誰の為にも生きていない。何よりも嫌いなはずの自分で、これからも何とかして生き続ける為に、周囲の都合のいい人間をあざとく利用し、寄りかかっている。僕は僕の為だけに生きている。この事実の、絶望的な孤独。

 この人生に、反吐が出る。

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