早瀬のアパートを後にし、僕は一人自宅に向け歩いていた。腕の中にあった温もりは寒風に奪われ、手袋もコートも突き抜けて、寂しさが体を貫いているようだった。胸元に大きな穴が開いていて、そこから無数の黒い腕が伸びては温かなものを掴んで引き摺り寄せて飲み込み、失った部分を補填しようとする。でもそれは、いつまで経っても埋まる事がない。

 自身の愚かさは認識している。少なくとも自分の心の外面は、早瀬には本当に悪いと思っている。けれど心の奥の凍えるような孤独が腕を伸ばし、寂しがる彼女を掴んで離さない。早瀬を幸せにしてやりたいとも思う。温かな幸福で溢れさせてやりたいと思う。でもそれは僕には到底出来ない。そしてそれが出来る、真っ当な人生を歩んでいる別の人間――別の男を考えると、頭を掻き毟りたくなるような嫉妬に襲われる。僕に寄りかかる存在を、手放したくない。縛り付けていたい。

「……死んだほうがいいな」

 ふと口に出した自己考察は、白く煙って空に昇り、それを追って上げた視線の先には、マンションの五階にある自室の、穏やかな明かりがあった。


「おかえりぃ、俊」

 妻が迎えるリビングは今日も暖かく、明るい。早瀬のアパートとの対比が、悲しく胸を掠める。

「ただいま」

「今日も残業?」

「うん」

「お疲れ様だねぇ」

 妻はコンロの火を付け、鍋を温めだした。この匂いは、クリームシチューだろうか。経理事務として働いている妻は残業がほとんどないため、いつも夕飯を作ってくれている。

「ねえ聞いてよ今日もさあ、後藤さんがめんどくさい仕事押し付けてきてさあ、自分はネットでウィンドウショッピングしてるんだよ、腹立つー」

 妻の愚痴に相槌をうち、別室でコートを脱いでネクタイを緩めながら考える。僕は、早瀬と比べてどれだけ救われているだろう。家で帰りを待つ人がいて、暖かな部屋があって、食事を作ってくれている人がいて、両親が離別しているわけでもなければ親戚に疎まれているわけでもない。そんな満たされた人間が、あの細く小さな体と傷付いた心に醜く寄りかかっていると思うと、吐き気がする。

 部屋着に着替えた後、深呼吸と自己暗示で微笑みを作り、リビングに戻る。テーブルには、湯気の立つ彩り豊かな夕飯が並べられていた。


 ***


 就寝前、妻に求められ、彼女を抱いた。

 大学時代にサークルで知り合い、好意を向けてくれているようだったので、こちらから声をかけ、付き合った。僕を求めてくれるものなら何でもよかったが、共に日々を過ごすうち、次第に愛情のような暖かな感情を懐いていった。燃え残った灰のような命を歩んでいた僕にとって、その潤いは格別のものだった。水分を含んだ灰が形を成し、一度は終わったと思っていた人生を再び歩き出すような、爽やかな再生を感じた。手を繋いで様々な場所を散歩した。旅行にも行った。いくつもの喫茶店に入った。映画も沢山観た。空は青く、足取りは軽く、風は自由だった。生きる意味を与えてくれるこの人に、僕は心から感謝した。大切で仕方なかった。一生をかけて幸せにしようと思った。やがてお互い社会人になり、結婚を望まれた時も、喜んで快諾した。

 でも過去は僕を離さなかった。


 軋むベッドの上で妻を見下ろした。汗が頬を伝い、妻の首に落ちた。目を閉じている。僕を信頼している。本当は、何よりも信じちゃいけない存在なのに。

 胸の穴がいくつもの細く黒い腕を伸ばし、妻の柔らかな体を掴んで引き千切ろうとする。待て、違うんだ、これは大切な人だ、傷付けてはいけない、そう言い聞かせても、孤独を吠える心は目の前の温かな生き物を優しく撫でようとはしない。それどころか数時間前に吸い込んだ早瀬の匂いが、いつかの彼女の瑞々しく震える体が、声が、息遣いが、眼前の映像にオーバーラップする。歪みかける視界の中、右手で彼女の肩を掴み、離れていかないように爪を食い込ませた。

 ああ、僕は何をしているんだ。絶望的に駄目な人間だ。何でこんなに壊れているんだ。死んだほうがいい。死んだほうがいい。でも死ねない。この人を一人には出来ない。寂しがる早瀬を一人にはしない。させない。もう悲しませたくない。傷付けたくない。傷付きたくない。もっとくれ。生きる理由をくれ。強く生きる理由をくれ。生きている確信をくれ。僕の存在を確かなものにしてくれ。この穴を埋めてくれ。一人にしないでくれ。助けてくれ。

 僕が掴む肩が痛いのか、快楽に悶えているのか、妻が顔をしかめた。僕の目から涙が溢れて零れ落ち、妻の首に落ちた。僕を信じ切っているこの人は、僕がこんな事をしながら静かに哭いているとは、思いもしないだろう。

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