駐輪場に自転車を停め、アパートの階段に向かう。二階建ての小ぶりなアパートは、壁が黒ずみ、照明も薄暗く、夜の闇の中では取り残されて寂しく佇む亡霊のように見える。いくつかの部屋には明かりが灯っているけど、しんと静まり返っている。先生は黙って後ろを付いてきた。古い建物なので二人の足音が響き、それが悪い事をしているように思えて、できるだけそっと、ゆっくり、階段を踏みしめる。最初に先生を連れてきた時は、私の生活空間の惨めさを知られる事が恥ずかしく躊躇ったけれど、先生はあまり気にしていないようだった。彼の変わらない落ち着いた表情は、私の心の張りつめた糸を緩めさせた。大人の余裕だろうか、と、思った。

 二階の扉の前に立ち、バッグから鍵を取り出す。いつ来てくれてもいいように、部屋は綺麗にしてある。鍵をノブに差し込み、回す。鍵を抜いて、バッグにしまう。ノブに右手を伸ばす。鼓動が、次第に早くなっていく。一つ一つの行動が、もどかしいようで、躊躇われるようで、早くしたいと思いながら、出来るだけゆっくり体を動かした。部屋の状況を思い浮かべて、先生に座ってもらう場所をイメージして、先生に出す用のお茶の葉のありかを思い出す。

 ノブを回して扉を引くと、重力を持った部屋の暗黒が、三日月の夜に零れ出す。一人で帰る時の、この瞬間の辛さは、耐えがたい。誰も待つ人がいない、冷たい部屋。そこに帰る事の、全てを終わらせたくなるような破滅的な寂しさ。でも今日は、後ろに先生がいる。視界になくても、彼の呼吸を感じる。触れていなくても、彼の温度を感じる。

 手探りで部屋の照明を入れると、蛍光灯が明滅して冷たい光を落とした。明るさは、暖かさではない。物理的な救いに過ぎない。光では私は満たされない。先生を入れて扉と鍵を閉め、靴を脱いで居間に足を乗せる。

「すぐストーブつけますね。お茶も淹れますから」

 部屋の奥にある電気ストーブに向かおうとする私の右手を先生が掴んだ。その手の強さと熱さに、心臓まで握られたような心地になる。

「……先生、ストーブつけないと、寒いですから」

 背を向けたまま震える声で些細な反抗をすると、掴まれた右手がぐいと引かれ、よろめいた私は正面から彼の両手に捕まった。先生はまだ玄関に立っているので居間に立つ私と高低差があり、私の鎖骨に彼の鼻が当たる。彼の髪が私の頬に触れる。背中に回された両手が強められ、肺に残っていた空気が微かな呻きになって押し出された。私の存在を求めてくれる力強い手に、魂の底が歓喜する。

 左手に持っていたバッグを床に落とし、私も両手を彼の背中に添えた。ベロアのコートは寒空に冷え切って、彼の体温を隠している。いつもよりも低い位置にある彼の体に、慈愛のような熱い感情が胸元に溢れた。右手を彼の髪に添わせ、そっと撫でる。

 傷を持つ人。寂しがる人。私の胸で震えなさい。ここなら大丈夫ですよ。ずっとありますから。

 目を閉じ、乾燥した冬の空気と共に彼の匂いで肺を満たす。彼の呼吸が私の首をくすぐる。彼が私で満たされる時、私はようやく満たされる。部屋の寒さが消えていく。体が内側から熱に溢れていく。最初の夜の熱い記憶が、全身を疼かせる。

「今日は」

 私の腕の中で、彼が擦れた声を出した。私のコートに音が紛れ、くぐもって胸に響く。

「ここまでだ」

「え?」

 先生は私を抱く腕を離した。不意の言葉に私の両手もほどかれた。開かれた二人の隙間に冷たい空気が流れ込む。

「どうして、ですか」

「妻が待ってる」

「そんなの知ってます!」

 数秒前の暖かさが嘘のように、心が温度を失っていく。

「今日は少しだけだって、言っただろう」

 先生は私と目を合わせずに、コートの襟を直した。

 どうしてこの人は、結婚しているんだ。どうしてこの人は、私に声をかけたんだ。

「次は、いつですか」

「分からない。でも」

 視線を上げて、私の目を見た。眉が少しだけしかめられている気がする。苦しんでいる。

「早瀬を、一人にはしないから」

 ああ、この人は、ひとの孤独に敏感すぎる。


 先生を見送り扉を閉め、冷たい鉄の扉に手を当てながら、彼の足音が遠ざかって、階段を下りていくのを聞いていた。それが聞こえなくなってから、部屋に戻ってストーブを付け、深呼吸を繰り返す。息を吸って、吐いて。胸一杯に息を吸って、尽きるまで吐いて。繰り返しても、胸元を縛る寂しさは出ていかない。

 明日、また、会える。その事実だけを頼りに、コートを脱いだ。頭が冷めると、さっき声を荒げた事が途端に恥ずかしくなってくる。隣の部屋に聞こえなかっただろうか。

 簡素な食事を済ませ熱いシャワーを浴びた後は早々に布団に潜り、抱きしめられた感触を手繰り寄せて、自分の体を撫でた。先生が私の心に絡めた鎖が、手を動かす度にじゃらじゃらと音を立てた。

 触れるなら離婚して下さいと、泣きながら縋り付いている自分を、泣きながら、無意識に思い浮かべていた。

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