職員室で書類の整理や明日の授業の準備をしていると、日が落ちるのが早い冬は、すぐに暗くなってしまう。演劇部には申し訳ないと思うが、仕事を滞らせる訳にもいかない。それに、中学から演劇をしているという経験豊富な田中を差し置いて僕が彼女らに貢献できる事も、そう多くはないだろう。

 早瀬詩織は、僕の受け持つクラスの中で孤立していた。両親が離婚し、生活力のない母の代わりに親戚の世話になっており、さらに高校入学からは一人暮らしをしている、というのは教頭から聞いていた。両親の離婚の原因が父親の犯罪らしく、彼女を引き取った親戚も厄介者扱いして傍に置きたくないのだろうと、教頭はたるんだ頬を撫でながら話していた。

 人と打ち解ける方法を知らないのか、壁を作っているのか、休憩時間や放課後も、一人で席に座っている事が多い生徒だった。僕はそんな彼女を放っておけなかった。担任教師として、という体面の裏に、そこには僕のエゴが多分に潜んでいただろう、と、今なら思える。

 それでも、彼女には、悪い事をした――そういった罪悪感は、芽生えかける度に、すぐに心の穴が飲み込んでしまう。自らの絶望的な業の深さに、時折眩暈がする。書類に走らせていたペンが、止まる。

 椅子の背もたれに寄りかかり、疲れた目を左手でマッサージしながら、深く息をついた。

「お疲れですね、高岡先生。コーヒーどうぞ」

 目を開けると、生物の水野先生が横に立ち、湯気の上がる僕のマグカップを差し出していた。

「あ、ありがとうございます」

 慌てて受け取ると、冷えていた手をマグが急速に暖めていく。熱かったので一度デスクに置いた。

「今日も奥さんが手料理作って待ってますからね、早く帰らないとですよね」

「あはは、そうですね」

 水野先生は僕より二つ年上の女性だが、まだ独身だ。僕が結婚してから時々こうして絡んでくるようになったが、素直にそう思って言っているのか僻んでいるのか分からないので応対に困る。

「ま、頑張って下さい」

 そう言って彼女は自分のデスクに戻って行った。せっかくだからコーヒーを頂こうと取っ手に左手を伸ばしたら、薬指の指輪が陶器のカップに当たりカツンと音を立てた。手を止め、指輪に刻まれた紋様を眺める。

 僕は、妻を愛している。彼女の為に生きている。それだけは間違いないと、ずっと思っていたし、その使命感を生きる支えにもしていた。だが最近は、その確信さえもが、愛だと思っているものまでもが、寂しさが産み出した幻覚なのかもしれないと、感じ始めている自分がいる。暖かな幸福に、目に見えない小さな亀裂がいつの間にか生じているような、そんな微かな焦燥と悲嘆。それは妻のせいでも、早瀬のせいでもなく、ただ僕のこの、絶え間ない業と欲望と孤独のせいだ。

 熱いコーヒーを啜り、深呼吸をしても、胸に纏わりつく不快さは消えなかった。

 機械的なチャイムの音が雑音を伴ってスピーカーから流れ、閉門の時間を知らせ始めた。


 ***


「先生」

 駐輪場に迎えに行くと、冷たい蛍光灯の光の下、早瀬は寒さに頬と耳を赤くしていた。

「ここじゃ寒いだろう。喫茶店にでも行っていればいいのに」

「だってお金かかるじゃないですか」

 彼女の金銭的生活レベルにまで踏み込んだ事はないが、住んでいる――いや、住まわされているアパートの質を思うと、とても裕福とは言えないのだろう。ただでさえ直接血の繋がっている訳でもない、ましてや犯罪者となった親戚の娘など、聖人でもなければ愛と金を注げないのかもしれない。

「校舎にいても追い出されるし、ここしか居場所がないんです」

 彼女は明るく言ったが、かける言葉が見つからず、僕は無言で早瀬のマフラーの緩みを直した。少し微笑んだ後彼女は鞄から鍵を取り出し、自転車のロックを解錠する。スタンドを蹴り上げ、ハンドルを握り、僕を見上げる。

「……じゃあ、行こうか」

「はい」

 冬の夜は肌を裂くように寒く、暗い空には曲刀の様な鋭い三日月が浮かんでいる。僕はこうして時折、早瀬を彼女が住むアパートまで送っていた。夜道の一人歩きを心配してでも、部活の話をするためでもない。この行動の底には、やはり僕の寂しさがあった。

「今日は、部屋に入っていきます?」

 早瀬が前を向いたまま言う。彼女の歩調に合わせ、自転車のライトが頼りなく夜道を照らしている。

 僕に依存し、僕を求めてくれる生き物。その存在が、その暖かさが、僕を微かに浮上させる。本当は、こんな事は良くないと分かっている。僕のすべき事は明確に見えている。手袋に遮られて見えない左手薬指の指輪を、親指で撫でた。

「いや……、今日は」

 そこまで言うと、早瀬がこちらを向いて寂しそうな顔を見せる。心臓が痛いほどに気持ちよく握り潰される。存在を必要とされることの、なんと心地よいことか。

「……少しだけな」

 早瀬は微笑みで返事をし、自転車の前輪に目を落とした。隣を歩く僕を、信頼している者の行動だ。本当は、何よりも信じちゃいけない存在なのに。

 早瀬の存在は、僕にとって都合のいい、心地よい、愛玩動物のようなものだった。それ故に離れがたく、放しがたく、拠り所にさえなってしまっていた。

 僕に依存する者に、依存する事で、僕は僕を保っている。

 この魂に教育者の資格など、とうに欠片も残っていないな、と、坂道を下りながら考える。

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