白
学校は、本当は苦手。だから月曜日は憂鬱。
制服のスカートは防寒の機能を持たず、剥き出しの腿は触れる空気にピリピリと刻まれるように感じる。寒さというものが結晶化して、空気の中に漂って震えているのではないだろうか。それはきっと刺々しく、でも陽の光を受ければクリスタルのように輝くだろう。
自転車を押しながら灰色の空を見上げて息を吐き出すと、それは白く立ち上って、やがて消えていく。日差しを遮るこの厚い雲が、余計に気分を沈ませる。それに、この坂。私の通う高校は丘の上にあり、脚力とスタミナのない私は毎朝自転車を押して坂を登らなければならない。これも運動の一環だと思うようにしているけど、煩わしいものは煩わしい。
気晴らしに、自分に割り当てられた台詞を心の中で暗唱しながら自転車を押していると、坂の頂上付近に設置されたポストの前に、先生を見つけた。鞄から何かを取り出して、ポストに投函しているようだ。少しだけ胸が弾むのを感じ、自転車を押す足を速めて、坂を駆け上がった。
「先生」
声が届く距離まで来た頃には、私の息は完全に切れ、先生は既に歩き出していた。私の声に振り向き、私を認識し、僅かに微笑む。胸がズキリと痛む。刺すような空気を取り込んだ肺が、冷たく震えている。
「おはよう、早瀬」
「おはよう……ございます……」
「はは、息が切れてるぞ。走り込みが足りないんじゃないのか」
「演劇に、走り込みは、必要ないと思うんですけど」
呼吸を整えながら答えると、先生は止めていた足を再び学校へ向けて動かした。
「そんな事はないよ。意外と体力使うものだからね」
自転車を押し、焦げ茶色のコートを着た先生の左隣を歩く。
「それに、演劇に関わらず体力はあって困るものではないだろう」
高校という新しい環境に馴染めずにいた私は、去年の夏、先生の勧めで、彼が顧問を務める演劇部に入った。初めは何もかもが気恥ずかしく、声を出す事にも怯えていた。
「それは、そうですけど」
会話をする度に、白い吐息が空気を揺らす。生徒よりも早く来る先生に合わせているため、他の生徒はまだあまり歩いていない。坂を駆け上がったせいか、火照った体がじわりと汗ばみ、それが冬の空気に撫でられて寒い。
ちらりと彼の左手を見たけど、手袋をしていて指輪は見えない。何を期待しているのかと胸がちくりと痛んだ時、その手が触れていた白い封筒を思い出した。
「さっきポストに何か入れてましたね。手紙ですか?」
「あ、ああ。見てたのか」
「この時代に手紙なんて珍しい。みんなメールで済ませちゃうのに。誰に出したんです?」
「まあ、親戚だよ」
はぐらかした。それが分かるくらいの付き合いはあるつもりだった。
「女の人ですか?」
「だから、親戚だって」
「私にも、手紙下さい」
「いつも学校で会ってるじゃないか」
「学校で出来る会話なんて限られてるじゃないですか」
先生は口を閉ざした。校庭が見えてくると、真冬だというのに運動部の生徒達がもうランニングをしている。彼らの口からも白い蒸気が立ち上り、列をなして走るさまは、滑稽な言い方をすると、おもちゃの機関車のようだった。
「陸上部は大変だよな。教師陣より早く来て朝練してるんだから」
「……そうですね」
急速に悲しくなる。涙が溢れそうになるのを俯いて堪える。この人にとっても、私の存在は特別なものだと思っていた。それが私の支えだった。でも学校で会って会話をする度に、その自信が少しずつ、からりからりと崩れていく気が、いつもする。
確信が欲しい。温かさが欲しい。一人は寂しい。一人は寒い。縋り付きたい。しがみ付きたい。
しゃがみ込んで泣き出せば、きっとこの人は動いてくれる。でもそれは、この人の意思ではない。この人の傷が、体を動かしているだけだ。それでは私の心の穴は満たされない。
唇を噛んで俯く視線の中、先生の目が私に向けられているのが見えた。色素の薄いその唇が、音を紡ぐ。
「今日」
二度の呼吸を挟んで。
「家まで、送るよ」
声音からも、無理しているのが分かる。それがまた胸を締める。それでも、無理しなくていいですよと言えない自分が、喜んでしまう自分がいて、それを見つめる冷静な自分が、また溜息をつく。
「……はい」
この人は、ひとの孤独に敏感すぎる。
いっそ、残酷に切り捨ててくれた方が楽なのに。
***
放課後、多目的教室へ向かう。部室を持たない演劇部は、普段使われていないこの部屋を活動拠点としている。とはいえ、この部屋が演劇部の活動以外に使われている事を私は見た事がない。事実上の部室と化している。
挨拶のために息を吸って扉を開けたが、まだ誰も来ていないようだった。肺の空気は声になることなく吐き出された。活動の邪魔だからと教室の隅に寄せられたままの机と椅子の無言の群れが、部屋の冷たさを強調しているように思える。
「寒い」というのと、「寂しい」というのは、とても近い所にあると、高岡先生と出会ってから気付いた。
バッグを置き、柱に備え付けてあるエアコンのスイッチに指を伸ばした。短い電子音、機械の動きだす低い音の後、暖かい空気が流れ出す。私立でもないのにエアコンがあるというのは、この高校の強みだと思う。ほっとして少しぼんやりした後、カーテンを閉めて体操着に着替えるため制服を脱いだ。顧問の高岡先生は、今日も雑務で部活に来れないと言っていた。先生が部活に顔を出す事の方が少ない。彼に触れられた部分を、思い出すようにそっと撫でると、その部分だけ熱くなるように感じた。
暫くして先輩達が到着し、部屋にようやく明かりが点いた気分になる。
「おはようございます」
「おはよう。ごめんねー遅くなって。HRが長引いちゃって」
眼鏡をかけて少しふっくらした田中諒子先輩は、二年の演劇部部長。
「絶対別のクラスの男子だって。完全濡れ衣だよね」
「ねー」
細身で長身、ポニーテールが似合う三浦恵美先輩も二年生。隣の小柄で童顔、可愛らしい雰囲気の藤野小百合先輩も、同じく二年。これで演劇部の部員が全員揃った事になる。二年生三人、一年生は私だけで、女子のみで構成されている。演じられる劇の幅を増やすため、先輩達は男子部員が欲しいと口を揃えて言うけど、私は今のメンバーで満足しているし、これ以上増えないで欲しいとも内心願っている。人数が少ないから、唯一の後輩である自分が可愛がられているのも分かるし。男子なんて来たら、私は退部するかもしれない。
「HRで何かあったんですか?」
黙っているのも変かと思い、着替えを始めた先輩達に聞いてみた。田中さんが答えてくれる。
「教卓にジュースの空き缶が置いてあったみたいでね。先生がそれにキレて、犯人が名乗り出るまでクラス全員解放しないとか言ってさ」
三人とも同じクラスだから、それで捕まっていたのか。
「結局30分くらい先生も無言で粘ってたんだけど、誰も名乗り出なくて」
「それは大変でしたね」
「若木先生は新人だから、なめられないように必死なんだろうね」
いち早く着替えを終えた三浦さんが言った。今年度から赴任した数学の若木先生は、田中さん達のクラスの担任も務めている。高校時代の自分の後輩だと、ベッドの中で高岡先生から聞いた事がある。
今日。家まで、送るよ。
今朝の高岡先生の言葉が、熱く胸を軋めた。
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