Saudade

青海野 灰

 海の底で揺蕩うような、ゆらゆらと頼りない、けれど確かな、深い夢を見ていた。

 何度も、何度も、見る夢。

 忘れかけ、前に歩き出そうとする度に、足を掴んで留まらせる。

 拭っても、拭っても、過去が消えなかった。


 コトリ、と、何かが落ちた音がした。普段であれば気にもしないような郵便受けに何かが投函される音が、海の底に波紋の様に広がって、僕の夢を静かに打ち払った。バイクが走り去って行く音。そしてまた、静寂。隣のベッドから妻の寝息が聞こえる。人の呼吸というのは、寝ている間は音を立てるということを、結婚して初めて知った。

 カーテンを通し、瞼を通して、微かな光が朝を告げている。今日は予定もない日曜日だから早く起きる必要はないが、夢の残滓が胸を甘苦しく締め付けるので、とても寝直せそうにもない。右腕を瞼の上に乗せ光を遮断し、ゆっくりと、静かに、音を立てないように肺に空気を取り込んでは、妻を起こさないようにそっと吐き出す。それを三回繰り返し、僕は寝室を出た。

 電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れる。顔を洗い、玄関に向かって、扉に備え付けられた郵便受けを開ける。中のものを一通り掴むと、リビングに戻ってテーブルに乗せた。コーヒーを淹れて、椅子に座る。こうして今日もまた、日常が始まる。過去の延長のような現在を、幸福を装いながら、心を擦り減らして生きる日々が。

 テーブルの郵便物の中に白い封筒を見つけ、つまみ上げた。先程僕を夢から救ったのは、これかもしれない。コーヒーカップを置いて、シンプルな封筒の口を開ける。僕に手紙を寄越す人間など、僅かしか思い当たらない。どうせまた旅行好きの親戚が出したものだろう。大して親しい訳でもないのに、いつも旅先で撮った写真と共に長い手紙を出して来る。誰かに話したくて仕方ないのだろう。

 だが、今日の封筒には写真は添えられていなかった。丁寧に折り畳まれた白い便箋が入っているだけだ。それを取り出し広げると、細かな文字が整然と並んでいる。その冒頭だけ読んで、すぐに僕は強烈な焦燥を感じ血の気が引いた。これは、僕に宛てられたものではない。ましてや妻への手紙でもない。封筒を確認し、それを確信する。そこに書かれているのは差出人も宛先も、僕の知らない住所、知らない名前だ。慌てて椅子を立ち玄関に駆け寄ろうとしたが、自分の行動の無意味さに気付いてすぐ足を止める。これを誤って投函した配達員は、とっくに別の町をバイクで走っているだろう。

 右手に持ったままの封筒に、再び目を落とす。差出人は、「石田麻希」。音の印象から、女性だと思われる。住所も書いてあるが、知り合いもいないような遠い他県だった。宛名は「高岡俊也」。こちらは男性だろう。偶然にも僕の氏名の末尾に「也」が一字増えただけのものだ。住所はうちと同じ東京都ではあるが、その後の区名も町名も異なっている。氏名が似ているというだけで誤配されたのなら、それはあまりにも杜撰だろう。差出人を確認もせずに封を開けてしまった僕にも問題があるが、配送システムに疑問を抱かずにいられない。

 本来であれば、誤配である旨の付箋でも付け、ポストに投函するべきなのだろう。ただそれは開封前の話だ。このまま捨ててしまおうかという考えも頭を過ったが、この手紙にはそれを躊躇わせるものがあった。先程読んでしまった冒頭だけでも読みとれる。このA4サイズの便箋に宿るものは、冷たく震える、深い、深い『傷』だった。

 唾を飲み込み、便箋を持ったままの左手を持ち上げた。罪悪感はあるが、何とかしなくてはいけない。いや、そんな正義感ではなく、僕の心の影が、この手紙に向け手を伸ばしていた。ここに刻まれた傷を、求めていた。心を落ち着かせる為に、椅子に座りなおして冷めかけたコーヒーカップに口を付け、二月の早朝の冷たい光の中、傷の刻み込まれたこの手紙に、僕は目を通し始めた。


 ***


「俊、早いね。何時に起きたの?」

「いや、ついさっきだよ」

「ふうん」

 寝ぐせのついた妻が洗面台に入るのを見送り、床に置いてある鞄をチェックした。違和感はない。

 あの手紙。「石田麻希」が「高岡俊也」に宛てて書き、何の不運か手違いか僕の――「高岡俊」の手元に届いた手紙は、やはり胸を切り裂くような、苦しい想いや哀願が綴られたものだった。恐らく「石田麻希」は、「高岡俊也」に深く想い入れ、捨てられたか、騙されたかでもしたのだろう。読み進むにつれ、彼女の心に刻まれ今も血を流しているであろう傷の鋭い痛みが、こちらにも伝搬してくるようだった。僕の心が、悲鳴を上げるようだった。今朝見た夢の余韻が、まだ胸にこびり付いていた。

 読み終えてから悩んだが、僕はペンと便箋を探し、返事を書くことにした。手紙が誤配された事の報告と、誤って読んでしまったことの深謝。そして今も悲しみに暮れているであろう「石田麻希」に向け、持てる限りの力を使って慰めと励ましの言葉を綴った。再送出来るように送られた便箋を共に新しい封筒に入れ、今は鞄の中にしまってある。明日の通勤時間で投函しよう。

「新聞読んでたの?」

 顔を洗っていた妻が洗面所から出てきて言った。

「うん」

「何か面白い事あった?」

「いや、いつもと変わらない日常だよ」

「そっか。あ、私もコーヒー飲みたい」

 コンタクトレンズを装着しながらそう言う妻に頷き、電子ケトルに水を追加するため僕は台所に向かう。

 「石田麻希」の手紙の事は、妻には黙っていようと思った。説明が面倒だし、確認もせずに封を開けた事を咎められるのが億劫だった。結婚してもう四年が経つが、喧嘩というものを一度もした事がない。この穏やかな関係は、今後も続けたかった。

 僕はコーヒーを淹れ、妻は朝食の支度をする。

 いつもと変わらない日常。過去の延長線上を、足を引き摺って生きるだけの日々。

 鞄に忍ばせた手紙だけが、そこに歪な光を投げかけているように感じた。

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