第9話 形勢逆転

死んだ筈のトレヴァーに、ルドルフは突如として襲われる。

受けた傷を処置すると、ルドルフは怪物に体当たりをお見舞いした。

予期せぬ攻撃を食らった怪物は、仰向けに倒れ込む。

しかし体の傷は完全には癒えず、ルドルフの腕からは絶えず血が滴り落ちていた。


「どうした、トレヴァーさんを亡き者にしたようにかかってこい!」


怒気を孕んだ口調で、怪物に向かって言った。

しかし彼は、務めて冷静に状況を分析していた。

魔術が身体に穴が開いてもピンピンしていた怪物が、あれで命を落とす訳がない。


「おい、早く続きをしようじゃないか。どちらかが再起不能になるまでな」


わざと怒らせるような言葉で怪物に毒づくと、ルドルフは体を折りかがみ、静かに身構える。

不覚を取ったが、今度はやられない。

突進をされた怪物が起き上がるまで、時間にすれば数十秒ほどの一幕であったが、ルドルフの体感ではそれ以上に長く思えた。

怪物は立つと、男は手や体を思いっきり伸ばして全身を弛緩させた。

一気に力を放出する為の予備動作。

来る、もう一回……。

さっきまでの攻撃とは比べ程にならない一撃が。

またあの速度で向かってきたら、見てから避けるのは間に合わない。

―――ならば、怪物が僕に到達より早く躱す他ない。

右か、それとも左か。

悩む暇は一瞬たりともなかった。

もう、どうにでもなれ!

破れかぶれに、本能に身を任せてルドルフは真横に飛び込んだ。

と彼が元居た石畳は、家を取り壊す時のような轟音をまき散らしながら、いとも容易く砕け散る。

振り返ると上空には賽の目状の破片が 噴水の如く舞い上がっていた。

間一髪で避けはしたものの、辺り一帯を破壊する凄まじい威力に、ルドルフは眼をぱちくりさせ、素っ頓狂な声を上げた。


「う、嘘だろ!」


あんな一撃を食らったら、今度こそあの世行きだ。


「ググッ……ゴロスゥ……」


殺意の込められた怪物の眼光は、身寄りのない野良猫のように鋭かった。

怪物の顔には、ミミズのように細長い青筋が、幾つも浮かび上がっている。

言葉に嘘偽りはないようだ。

そうだ、僕だけを見ろ。

お前の相手は僕なんだ。

他の人たちに指一本触れさせはしない。

「どうした化け物、かかってこいよ。そんなに憎いなら僕を殺してみろ」

憎々しげな瞳を見ても物怖じせず、ルドルフは負けじと睨み返す。

いつもの癖で眼を閉じ、呼吸を整えようと息を吸い込むと、ルドルフの全身の筋肉が悲鳴を上げた。

歯を食いしばって痛みに耐えるものの、歯の隙間から吸った息が漏れ出てしまう。

だが、休むのはあの怪物を追い払ってからだ。

息も絶え絶えに、 ルドルフは強がってみせた。

弱気になったら、全てが終わってしまいそうな気がして。


「ハァハァ……死に掛けの人間一人殺せないんじゃ、怪物の名折れだな」


だが、立っているのでさえやっとの状況のルドルフには、 状況を打開する術が思い付かなかった。

槍は吹き飛ばされた際に手放してしまい、手元にない。

今の体力では怪物の攻勢を掻い潜り、取りに戻るのは難しそうだ。

それに胸を突き刺しても、致命傷を与えられなかった。

この状況で武器を頼りにするのは、雲を掴もうとするように無意味に感じた。

あまりに不利な状況に、全てを投げ出したくなる。

だが英雄になりたい、それだけの欲求がルドルフを奮い立たせた。

誰に強制された訳でもない。

自分で選択し、自分で行く道だ。

こんな簡単に諦めてはいけない。

僕には、両親から貰った肉体がある。

まだ物を掴む動作が出来ないが、手の甲で思いきり叩けば、多少はダメージを与えられるだろう。

それに怪物の足の骨を砕けば、その分行動範囲は狭まる。

たとえ怪物を殺せずとも、これ以上の被害を食い止めることくらいは可能な筈だ。


「ハアッ、フンッ!」


決意を固めたルドルフが怪物に向かっていき、腕を鞭のようにしならせて振るうと、血飛沫が一面に飛び散る。

が無情にも、怪物は花畑に舞う蝶々の如く華麗に、最小限の動きで彼の攻撃を躱した。

軽い身のこなしで、時間が許すのならずっと観察していたくなるような、惚れ惚れする動きだった。


「一撃も……当たらないなんて……」


大振りで隙だらけだが、掠り傷さえ与えられないとは。

相手は、先ほど心臓に氷柱が突き刺さっていたとは感じさせないほど、軽快に動く怪物。

対して自分は体を動かせるものの、致命傷を食らったばかりの病み上がり。

このまま消耗戦になってしまえば、出血多量で手を下される前までもなく死ぬ。

本当に打つ手はあるのか。

打開策も見出せぬまま攻撃を加えている内に諦めにも似た感情が、ルドルフの心を覆いつくした。

だが、怪物を不用意に近寄らせない為には牽制し続けるしかない。

暫くの間、無為無策に攻め続けていると、突如異変が起きる。


「ウ゛、ウ゛ゥ゛……」


苦い表情を浮かべつつ腕を幾度となく振り回し、まるで自分に寄ってくる虫を払うかのように、僕の攻撃を鬱陶しがったのだ。

何故だ、何故攻撃を嫌うのだ。

これまで余裕の態度だったのに。

いや、これは好機だ。

食い入るように怪物を見据え、ルドルフはただ一点に集中する。

深手を負わせる箇所は数あるが、生物を確実に始末するには頸動脈の通った首筋を、あそこをへし折るしかない。


「浄化と生育を司る神よ。我がか細い体に汝の加護あれ。ルトゥム・モンストル」


唱えると最初は二の腕、次は前腕と、淡い光は明滅しながら、らせん状に回転しながら腕の形を沿う。   

そして花火が散る瞬間の如く、一瞬パッと強い光を放ったかと思うと、泥の塊がルドルフの全身をすっぽりと覆い隠した。

身体を強化する土属性の魔術で、発動中は若干動きに難がある。

しかし、鈍い敵を手っ取り早く葬り去りたい時、或いは死を避けたい時にもってこいの呪文だ。

痺れるような痛みを堪えながらも、ルドルフは拳を握り締める。

この拳に、ルクスの全てが掛かっているんだ。

達成できなければ、後から幾らでも取り消せるクエストとは違い、一発勝負だ。

十代の彼には重すぎるほどの責任が背中に圧し掛かった。

その上、先ほどの人の域を超えた攻撃を嫌でも思い出してしまい、不安を煽られる。

いや、大丈夫だ。

注意が向いていない今なら、反撃は貰わない。

それに先ほどとは打って変わって、怪物は逃げ腰だ。

恐怖心を抱かないように、ルドルフが目を瞑りながら一歩一歩進むと、着実に声との距離が縮まっていく。

そして怪物の前まで近寄ると、地面を思い切り踏み抜いた。


「怪物よ、見事だった。だが僕の……勝ちだ!」


冥土の土産代わりに、手向けの言葉を述べると、ルドルフは腰を回転させて拳を振るう。

弾丸と形容しても過言ではない、威力と速度を兼ね備えた攻撃―――。

だが勢いよく放ったパンチは、寝起きのように乱れた怪物の髪を掠める。

ルドルフの渾身の一振りも、辛うじて避けられてしまった。

しかし今の一件で、彼の中でより明確になった。

立場が逆転したのだ。

怪物に恐怖していた自分が、今度は恐れられる側に回ったのだと。


「ヤ゛メ゛ロ゛ォ……」


怪物は涙を溜めながら、ルドルフに訴える。

傷さえ負わせていない攻撃に、いったい何の意味があるというのだ。

理解が及ばない。

しかし、無駄ではないとだけ分かった。

理屈は不明だが、やるだけやってやる。


「どうした、怖気ついて。さっきのように向かってこいよ。それとも無抵抗な相手にしか襲えないのか、臆病者」

「グゥゥ……」


ひどく怯えた様子で、挑発にも食って掛からない。

先ほどまでの威勢は何処にいったのだろうか。

僕を圧倒した怪物が震えるほどの脅威が、今までの行動に隠されているとでも言うのか。

考えろ、ルドルフ。

僕は何をした。

最初に、あの怪物の胸を貫く一発。

次に腕を鞭のように振るって怪物を追い払おうとした。

そして今、魔術で強化した拳骨を殴り掛かった。

他には特に何もしていない筈だが……。

いや、もっと別の原因があるのか。

上手くいけば、この状況を好転させられるかも知れない。

考えて、考えて、考え抜け。

ルドルフは熟考しようと瞼を閉じ、脳に体中の血液を行き渡らせた。

すると


「カ゛ラ゛ダガァ、オォォ……。ヴゥ……、グア゛ア゛ア゛ァ゛!」


怪物はいきなり半狂乱に「体が、体が」と、呻き声を上げた。

苦悶の表情をしながら、頭痛を訴えるかのように両手で頭を抱えている。

あまりに耳障りな叫びは、ルドルフの思考を妨げた。

何が何だか、さっぱり分からない。

だが、隙が出来た。

引くにも押すにも絶好の機会だ。

さぁ、どうする。

ルドルフは一瞬悩む。

が、すぐに答えを出した。

だが、真正面から立ち向かっても勝てなかった。

正直言って、戦っても勝算はないだろう。

怪物が悶え苦しんでいる理由さえ分かれば、勝利への糸口が掴めるかも知れないが、現状では押しても八方塞がりだ。

相手の正体を掴めない以上、無暗に戦わない方が賢明だ。


「そうだ……。そのまま大人しくしているんだぞ」


怪物の気が逸れるのを、獲物を狙う狩人のように息を殺し、今か今かと待つ。

と、その時


「うわぁ…… 」


赤子の鳴き声のように、耳をつんざく叫びが周囲に木霊した。


「まさかアルヴィドが……」


その声が聞こえた時、ルドルフは直感した。

夜闇に潜む怪物は、一匹だけではなかったということに。

不本意ではあるが、二手に離れてしまうとは迂闊だった。

怪物を野放しにして、被害が拡大してしまいかねない。

市民か友人かの二者択一。

心の天秤は、友人の方へ傾いた。

赤の他人の命よりも、ルドルフにはアルヴィドの方が遥かに大切だった。

助ける対象を私情で選んでいては、英雄失格だな。

ルドルフは、自分の選択を自嘲する。

だが、友人の命には代えられない。

怪物が自分を見ていないのを確認すると、一目散にその場を去って、彼は叫び声のした方へ向かった。

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