第5話 就寝
階段を昇ると一歩、また一歩と昇っていく度、ギイギイと軋む。
いつ壊れてもおかしくないと思える程、宿屋はあちこち老朽化していた。
底が抜けたりしないだろうか。
そう考えると途端に恐ろしくなり、ルドルフは唾を呑む。
心臓が陸揚げされた魚みたいに、ビクンビクンと跳ねている。
どうにかして気を紛らわせないと。
ルドルフはハンナから手渡された、先端がクワガタの鋏のような意匠の鍵を眺めた。
確かどれも違った形をしていて、ピッケルのような形状の鍵もあった。
それから……。
考え事をしていると、あっという間二階に辿り着く。
僕が泊まる番号は204、204。
通り過ぎる部屋の木札に目を遣り、心の中で唱えた。
204の扉を開けると、人一人入れる程度のスペースしかない部屋が視界に映り込む。
正方形の窓から望む空は、すっかり茜色に染まっていた。
ベッドの上に敷かれたシーツは厠に行くのが間に合わず尿を漏らしたのか、酒をこぼしたのか、びっしょり濡れている。
シーツは頻繫に変えることはなく、部屋の状態にによっては、馬小屋で寝た方がマシな場合も少なくない。
大きい方がされていないだけ、今回は当たりだ。
ベッドのヘッドボートの横に、机が配置されているせいで、ルドルフはより圧迫感を感じた。
寝るだけの部屋というよりも、寝ることを強要されているかのような狭苦しい部屋だった。
昼間の活気はなくなってしまったが、代わりに夜警が頻繁に角笛を吹いている。
何かあったのだろうか。
だが、ルクス国内のいざこざは彼らの仕事だ。
「アルヴィド、ダグマル、ごめん……」
腰を下ろして休むと、今更になってルドルフに後悔の念が沸々と沸いた。
大切な人たちに、なんてことを言ってしまったのだろうか。
「それでも、二人が無事ならそれでいいんだ」
心の葛藤を、二人に言えなかった本心を虚空に向かって喋る。
「でも、本人の目の前で言わないと意味ないよ……」
情けない自分を自嘲した。
一人で旅をしていこうと決心してから、弱音は吐かないと決めた筈なのに。
頑張れば頑張るほど、どれだけちっぽけな存在かと、これでもかと思い知らされる。
英雄の子と言えど、ルドルフの中身はどこにでもいる男の子だった。
いつか特別な人間になることを夢見たり、身近な少女に仄かな好意を寄せたりする、ごく普通の。
「もう二人に会えないのかな」
いや、ダメだ。
何かしら行動してないと、余計なことばかり考えてしまって余計に落ち込んでしまう。
ルドルフは何の気なしに、手をブラブラと動かした。
カマキリが前腕で獲物を捕らえる瞬間のように、何度も何度も。
気が済むまでそうしてからルドルフは最後、トラバサミのように素早く両手で頬を思い切り引っぱたいて気合を入れた。
ヒリヒリして、少し痺れたような感覚を覚える。
よし、こんな日は早く寝てしまうのが一番だ。
ルドルフはベッドに仰向けになって、身体を落ち着けた。
安物で硬く、寝返りを打つ度に音が鳴って耳障りだ。
その上、尻の辺りがひんやりする。
お世辞にも寝心地がよいとは言えない。
だが今は、それでもよかった。
僕は許されない罪を犯した。
これくらいの罰は受け入れないといけない。
ルドルフは自分に強く言い聞かせた。
「……うぅ、寝られない」
脳裏に過るのは、アルヴィドとダグマルとの思い出。
いくら誤魔化そうとして、彼らを頭から消し去ることはできなかった。
ごめんなさい、謝罪したい、謝罪しなければ。
そう思いながらも、彼らと向き合い謝ることを怖れ
「あっちが先に吹っ掛けてきたから」
「十七年の付き合いなんだ、なあなあにしても大丈夫だろう」
「謝るのなんて自己満足だよ」
などと、言い訳の言葉を用意して逃避しようとする自分が、嫌で嫌でたまらなかった。
傍にいてやることのできないルドルフに出来ることなど、彼らの身の安全を祈ることだけだった。
「眠りと死を齎す神よ。どうかアルヴィドとダグマルの旅路にご加護を……」
両目を手で覆って《月の民》の信仰する闇神、テネブラエに言葉を捧げる。
本来であれば布で目を覆い完全に視界を奪ってから、股の辺りを押さえて行うのが、正しい作法だ。
その後西の方角と東の方角にそれぞれ一礼するのだが、幾つかの手順を省いたりと簡略化されるのも珍しくはない。
大事なのは取り繕う体裁ではなく、信仰心。
ルドルフの父母や三英雄の一人グンナルなど、彼が今まで関わった《月の民》は口々に言った。
貴重な時間を割いてまで、何故愚直なまでに神という存在を信仰できるのだろう。
心の中で疑問に思いつつも、ルドルフは姿形を見たことのない闇神の存在を、漠然と信じていた。
正確に言えば、あれやこれやと理屈つけて存在を否認しようとは思わなかったのだ。
火をぼうっと眺める時、木に触れて肌で感じた時、目を瞑って五感を研ぎ澄ませた時、口では言い表せない大きな力が自分を見守っているかのように思えた。
生活での慣習を守り、自然に根付いた信仰心であった。
誰からも強制されることはなかったものの、今更自分の血肉となったものを変えることなど考えられない。
祈りを終えると、不思議とルドルフの心のわだかまりが軽くなっていく。
何も思考せず日々自分のこなすべきことに取り組み、与えられた役割を全うしている間だけ、ルドルフを縛りつける種々の感情から逃れることができた。
早朝に起き夕方には就寝して、深夜に目覚めて神を崇めた後、もう一度眠りにつく,。
規則正しい生活は、夜闇の森で暮らしている頃から変わっていない。
「よし、明日も頑張ろう。」
そう言うと、ルドルフは無理矢理瞼を閉じた。
他の誰でもない、自分自身への誓いであった。
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