覚めないストレスリリーヴ(ジャンル:現代ファンタジー+二人称小説)
どれだけ時代が変わっても、人は眠ることを止められない。
学者は言います。人が眠るのは『記憶の整理』であると。
夢を見てしまうのは、整理の間に生まれる
人間の脳はコンピューターより遥かに優秀で、一生涯の映像と音を十分に記憶できる。
ならば何故、夢は覚えていられないのか。
どうして忘れてしまうのか。
さあ、今夜も『不要な情報』を、消していきましょう。
この声が聞こえているということは、もう足を踏み入れている証拠なのだから。
お休みなさい――――
***
君は、昼下がりの屋上に立っていた。
どこかで見たことがあるような、一面コンクリートの床。乗り越えられない高さの金網で囲われた、小ぢんまりとした場所。その中央で何をするでもなく、立っていた。
空を見上げると、どこまでも灰色の雲が広がっている。今にも泣き出しそうな天気だった。
どうして、こんなところに――いくつもの疑問が浮かんでは、泡のように消えていく。君は考えを巡らす前に、両耳に違和感を覚えた。
風の音が聞こえにくい。
そっと指で触れると、何かイヤホンのような物が詰まっている。
それを取り外そうとしたところで。
『僕が話すわけですね』
耳元で少年の声がした。これまた覚えがあるような、はっきりとした
『何回目になるか分からない、初めまして。僕はシン族のリョウです。どうか、そのまま聞いてください』
君が驚いている間に、リョウという人物は手早く名乗りを済ませた。声からして、物腰柔らかそうな印象だ。
『これから僕が言うことを、理解する必要はありません。ただ知っておいてください。自分が何をするべきなのか――それさえ知っていれば構いません。せっかく
彼は弾むような口調で続けた。
『いいですか、これは夢です。あなたが眠った時に見ている夢。その一周期に訪れたノンレム睡眠の中身が、この場所です。昨日、もしくは数日の間に、あなたは屋上を目にしています。実際に見たのか、映像や
夢を夢だと自覚する。いわゆる
人は浅い眠りと、深い眠りを繰り返している。明け方になるほど深い眠りは緩やかになり、意識は覚醒していく。リョウの言葉を信じれば、今見ている光景は
君は困った。思えば、どうやって屋上に来たのかも分からない。ふと気付いた時には立っていたのだから。
現実感が、まるで無い。こんなことは初めてだった。
『初めてじゃないですよ。何千回と繰り返していることです。この説明も、僕が担当した時は毎回しています。でも覚えていられないんですよね、一部を除いて』
語尾がトーンダウンした、その時――ガチャリと屋上の扉が開いた。
姿を現したのは、清掃作業服の男だった。ツーブロックのオールバックはポマードでもしているのか、黒く
誰? 思い出せない。
『今夜の悪夢候補はアレですか。ちょっと来るのが早いですね。まだ話半分なのに』
首を傾げた男は数秒間、君を凝視して――
「ッ!?」
顔半分、脇腹、左もも、右足首。それらにテレビの砂嵐が走って、再び元に戻る。
君は、ようやく状況を理解した。これが夢でなければ、何だというのか。
現実離れした展開の連続に、悲鳴すら出ない。
今、確かに頼れるのは、リョウと名乗る人物だけ。
『このままアレを放っておくと、二周期目のノンレム睡眠で悪夢になります。それを避ける為の条件は三つ』
どうしてだろうか。淡々と話すリョウに対しては、疑うという気持ちが湧いてこない。まるで一番信頼できる人であるかのように、すんなりと聞き入れてしまう。これも夢心地なのだろうか。
『一つ、あなたが消したいと願いながら、アレに触れること。二つ、何かの拍子に現実世界で起きること。三つ、あなたが自力で夢から覚めること。まあ、後ろの起きる系は滅多に出来ないので、早い話が鬼ごっこですね』
(鬼ごっこ……?)
『もちろん、あなたが追う方です。この世界の主ですから――何にストレスを感じて、何を消すかは、あなた次第』
清掃作業服の男は目を見開き、
君は「あっ」と手を伸ばすも、すでに男の姿は無く。
『残りは追いかけながら話します。大丈夫、僕が担当している時は、絶対に悪夢は見させません』
未だに整理がつかない。けれど確実に言えるのは、ここが夢の中であることと、何故か君は焦っているということだ。
それこそ何千回と繰り返してきた習慣のように。あの男を放置しておくのは良くない気がしている。
君は男の後を追った。屋上を出て、踊り場の階段を降りていく。捕まえることを考えるなら、とりあえず下の階を目指した方が無難だろう。
風を切る音に負けないように、リョウは声量を上げて喋った。
『アレが悪夢となるには、一度あなたの前に姿を現す必要があるんです。嫌なことを思い出させて、意識に埋め込むというわけですね。セオリー通りだと、その時が最大のチャンスなのですが、今回はアレの登場が早すぎました。しかも人であるのが最悪です。逃げる頭を持っています。物や動植物だったら簡単なのですが』
君は階段を踏み外さないように、足元に注意を払っていた。何階建てのビルなのか、そもそも何の建物なのかも
そうして一階に辿り着き、長廊下に出たところで――男を捉えた。
ちょうど君の反対側に居た男は、見付かったにも関わらず、こちらに向かって走ってくる。一直線上に窓ガラスの斜光を、いくつも踏みつけながら。
観念したわけでも、やけになったのでもない。
男の目的は君ではなく、出入り口だ。
『外に出られると厄介です! あなたも走って!』
その声に背を押されるようにして、君も駆け出した。だが出遅れたのと体格の差から、どう見積もっても間に合いそうにない。
『いや、あなたの方が速いです。だって、
(く、靴が――ッ!?)
勝手に走る。靴の両側面には車輪が付いており、それが電動モーターによって加速していた。
一体いつから? 君は階段を降りている時、自分の靴まで意識していたのか?
『動画サイトを見ていて正解でしたね。時速20km、自転車並みの速度に駆け足で勝てるわけがありません。このままアレを消してやりましょう』
清掃作業服の男は勝てないと分かるや足を止め、素早く振り返った。しかし自ら進んだ距離は絶望的で、この期に及んで逆走しても時間の問題である。
あと残された選択肢は、窓。
『今です!』
男がガラス窓に飛び込む前に、君は横腹に勢いよく体当たりした。バランスを失って、二人して倒れる。
恐怖で目を開けていられない。
男の腰に手を回したまま、心の中で願うのは、リョウが言っていた悪夢を見ない為の術。
消えろ、消えろ、消えろ――!
いつまで、そうしていたのか。
リョウの呼びかけに気付いた君が目を開けると、そこには誰一人として居なかった。
悪夢は、文字通り消えたのだ。
『お疲れ様でした。今回も辛勝でしたね』
子供のように笑うリョウ。ようやく君は安心して、長廊下で半身を起こした。
窓から見える曇り空が、まるで
『それでは、また会いましょう。どうか幸せな夢が見られますように』
世界が閉じる。徐々に意識が薄らいでいく。
この世界が終わっていく光景を、君は最後まで眺めていた。
***
『ハロー、また会ったね。アタシはシン族のコウキ。今日もアタシの興味本位に付き合ってもらうよ。しかし随分とまあ、変わった世界みたいね。寝る前にファンタジーな映画でも見たのかしら。はん? 悪夢は消さないのかって? そんなのはオマケよ、オマケ。最後にパパッと片付けるもんなのよ。まずは可笑しな世界を楽しまないと。せっかく現実じゃないんだし、もったいないじゃないの。つーか、あれ? あんた、何で悪夢のこと覚えてるわけ?』
(……こっちが知りたい)
『いや、あれ? ちょっ、いつもと勝手が違うっていうか。いやいやいや、何これ。こんなの、アタシも初めてで。そういうサプライズは願い下げなんだけど!』
君は覚えている。
夢の中で起きた、数々の奇っ怪な出来事も。
君は忘れていない。
リョウと共に悪夢候補を消し去ったことも。
君は。
『ひょっとして――あんた、眠ったまま?』
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