影世界のヒッキ―(ジャンル:伝奇)
スーパームーンの皆既月食。
そんな誰もが夜空を見上げている中、僕は勉強机に向かっていた。
高校受験は一分一秒も待ってはくれない。
父曰く、学校とは単位を取得する場所。良い成績を修めれば理想の職に就ける。学業を疎かにするのは、自身の可能性を狭める愚かな行為。
日本――ひいては世界という箱庭で好きな所へ飛ぶには、条件がいる。
一つ、高みに上ること。小中高大での優秀な学績。
二つ、翼を合わせて飛距離を稼ぐ。大学と院でのコネクション。
そうして得た利益こそが幸せの方程式。世に敷かれた暗黙のルール。
その通りだと、僕も思っていた。
数学の設問を解き終え、僕は時計を目にした。見直しを含めても随分と余裕がある。このまま自己採点に移ってもいい。けれど根を詰め過ぎるのも良くないと、目頭をグリグリと押さえながら、椅子を回転させた。
勉強机にある明かりで、僕の影が長く伸びている。ベッドと本棚、タンスしかない質素な一人部屋。それらを跨ぐようにして、影は存在感を示していた。ぐっと背伸びでもするかのように、大きく。
そこで僕は、はたと気が付いた。
僕は腕なんか上げていない。
ずっと目頭を押さえたままだ。
目を擦り――再び、影を見た。
今度は踊っていた。椅子から立って勉強机の上に乗り、陽気な素振りで、軽やかに。その足元は確かに僕と繋がっている。
思わず振り返ったが、誰も居やしない。
この影は、独りでに動いている。
疲れ? 白昼夢? いいや、そうじゃない。
僕は正常で、これは異常だ。
皆既月食に、怪奇現象だなんて。
喉を鳴らし、深呼吸を繰り返す。興奮しているのか、息を吐くのも、おぼつかない。
常識が変わる。箱庭に思えた世界は、光の当たる表面。
僕は手元を震わせながら……スマホの録画ボタンを押した。
◆◇◆◇
「
誰かに呼ばれた気がして、僕は顔を上げた。見れば数学教諭のスキンヘッドが、タコのように丸めた頭を赤らめている。
どうやら授業中に呆けていたらしい。なんだか昔のことを考えていた気もする。
「比津内、前へ出て問題を解け」
高圧的な態度に舌打ちをしたくなる。面倒な。
高校一年レベルの数式なんて、とっくに予習済みだ。都内でも有名な進学校なら、生徒によって進行度が違うのを教師陣は理解するべきだ。こっちは大学受験の勉強で忙しいのに。
僕は衣替えを済ませたばかりの冬服を正し、すくっと立ち上がった。
黒板へ歩を進める間も、クラスメイトから同情や憐みの感情は向けられない。それで構わないと思う。どうせ行く先が違い過ぎる。友達という名のコネは大学からでいい。
チョークを手に取り、さらさらと答えを書いていく。簡単だ、間違えようがなかった。
いよいよタコ教師は茹で上がり、もう少し気温が低ければ湯気でも出ていそうだ。
「解きました」
僕が踵を返そうとしたら、「待て」と止められた。
「どうして授業中に上の空だったのか、言ってみろ。そんなに俺の授業が退屈だったのか?」
不快感を表に出さないようにするのが精一杯だった。くだらない矜持だ。内申点さえ無ければ、こんな教師は相手にすらしない。
公式に当てはめる数式とは異なり、人の気持ちは不確かなのが困りものだ。
「どうした比津内」
――仕方ない。今日も潜るか。
僕は俯いて目を閉じ、すっと息を止めた。
意識だけが溶けていく感覚。それは睡眠と似ている。より具体的な違いは、非常識を認知しているか否か。僕は溶かした意識を、影の中へ落としていった。慣れたもので、あちら側には数秒で行けてしまう。
表と裏。光の当たる世界が現実なら、その陰になっている世界は虚構。
ゆっくりと目を開ける。
黒と白、灰色で構成されたモノクロの教室。
『すみませんでした、先生』
そして僕の隣には、影の輪郭を立体化させた――もう一人の、僕がいる。
影人間の僕は、軽く頭を下げて応えた。
『昨晩の予習が上手くいかず、寝不足でした。先生の授業は分かり易いので、以降は聞き逃さないようにします』
『……そ、そうか? わかった。席に戻れ』
『すみませんでした』
「機嫌取りは良いけれど、ペコペコと頭を下げるなよ」
そう言って僕は今度こそ、はっきりと舌打ちした。この声は誰の耳にも届かない。ここにいるのは皆、どす黒い影人間だ。その塗り潰された表情は汲み取れないし、所作と現実世界の声でしか察せない。
影人間の僕は何事も無かったかのように着席して、授業を受けた。
あの皆既月食から一年。僕は、この奇妙な世界のことを調べて回った。単なる知的探究心だけじゃない。全ては自分の利益の為に。
「それじゃ、あとは任せたぞ」
反応が返ってこないことを承知で話しかける。こうでもしないと落ち着かない。
勝手に動き喋る影人間の僕は、観察する限りでは一般常識を持ち合わせている。僕が蓄えた知識も、それなりには使いこなしているようだ。だからこそ変わっていられるが、口が達者なのと調子者なのが我ながら気に食わない。
下手に誰かを勘違いさせて余計な面倒でも作ろうものなら、僕は影世界での利便さを諦める気でいた。今のところは、まだ平気なようだが。
こいつの影さえ踏めば、いつでも現実世界には戻ってこれる。そんな気軽さが僕を解き放っていた。
教室の扉を開けて廊下へと出る。開けた扉は、まるで自動ドアのように閉まっていく。
あくまでも影世界は裏面。物理的な干渉こそ出来るが、基本は表面の現実世界に引っ張られる定めだ。ここでは何を壊そうが燃やそうが、短時間で元に戻る。
それは僕自身においても同じで、こちらで指を切ったところで現実世界の僕には影響しない。
学校を出た僕は、モノクロの影世界を歩く。雑多に聞こえてくる話し声と物音。人間やペットが輪郭を持った影なだけで、この世界も同じ時間軸上に流れている。
『うっわ、何それ最悪じゃん。別れちゃいなよ、そんな彼氏』
『えー、でもでも食事代とか出してくれて便利だしぃ』
律儀に影人間達と並んで信号を待つ。自分が犯人だと特定されない、世界のルールを把握した上で、下種な影人間を車に轢かせたこともあったが……やはり現実で交通事故は起きていなかった。信号機が灰色から灰色に変わる。
どう抗ったとしても、影世界は現実に引っ張られてしまう。
しかし何事にも例外はあるもので。
僕が手に持ち続ければ――つまり干渉し続けてさえいれば、本くらいは読める。
向かった先は学校から徒歩十分ほどのところにある図書館。僕が影人間に無駄な授業を受けさせている間は、こうして様々な場所へ赴き、知識と経験を得ている。
僕には圧倒的に人生経験が足りていない。本当の知恵は、行動を伴って然るべきだと思う。分かった気にだけなるというのは、物事の本質を捉えていない証拠なのだから。
自戒を胸に、僕は図書館の入り口に手をかけようとして――
「よ、ようやく見付けた!」
やけに通る声だった。影人間が発している、こちらを向いていない声色じゃない。まるで僕に話しかけているような、そんな響きがした。
「そこの、君。待って!」
僕は振り返り、そして目を見開いた。
僕以外の真っ当な人間が、そこにいた。
見かけない制服姿。年頃から判断すれば女子高校生だろうか。膝に手をつき、苦しそうに息を切らせている。セミロングの茶髪は正面に垂れ、振り乱れていた。
「やっぱり、人だ……私の他にも、いたぁ!」
上気させた頬を緩め、彼女は心底安心したように笑った。
ああ、駄目だ。やめてくれ。最悪じゃないか。
この胸の高鳴りは……間違いなく、危機感を報せている。
僕の他にも、影世界に出入りしている人間がいたなんて。
こんな事態を、考えていなかったわけじゃない。けれど、ここ一年の間に可能性を低く見積もっていたのは確かだ。
「誰だ、お前は」
僕は短く告げた。
こちらの素性は何が何でも隠し通す。その上で、相手の情報は包み隠さず暴いてやる。本来なら顔すら見られたくなかったが、不意な出会いでは仕方がない。
彼女も警戒してくるだろうと思いきや、息を整え、絶やさない笑顔のまま姿勢を正した。
「あ、ごめん。まずは名前からだよね。あたしは、
バカなのか、こいつは。すんなりと愛称まで自己紹介するなんて。無防備が過ぎる。そんな有り様で、どうやって今まで生きてこれたのか。
僕の不快感が顔に出たのか、明るかった彼女の表情が、一転して悲しげに変わった。
「こんなこと、初対面の君にお願いするのも変だけどさ……ここから出れなくなったの、助けて!」
言葉の真意が分からず、僕は間抜けにも口を開けて固まった。
ここから、出れなくなった?
それって……どういうことだ。待て、僕は、どうなる。
分かった気にだけなるというのは、物事の本質を捉えていない証拠。
そんなフレーズが頭の中を巡る。
理解が追い付く前に、僕のポケットが震えた。
訳も分からずスマホを取り出すと、非通知の着信画面が映っていた。
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