ドットラインを辿って

@araki

第1話

「――だからね私、今の彼とは相性最高だと思うのよ。もう一生離れたくないってくらい」

「そうなんですか……。そのままゴールインする予定で?」

「私的にはそうしたい。その……婚姻届もこっそりもらってきたし」

 頬を淡く染めて恥じらう仕草を見せる川上さん。そんな先輩の様子を尻目に、私は空になったグラスへ三杯目の水を継ぎ足した。

 ――いつまで続くんだろ、この話……。

 腕時計を見ればいつの間にか針が半周している。珍しく先輩からランチに誘われて嬉しくなった私はひどく愚かだったと静かに悟る。

 ――そういえば最近、白井さんがお昼と同時に会社を飛び出すようになってたっけ……。

 川上さんのお昼仲間が忽然と姿を消す訳をもう少し考えるべきだった。どうやら私はカナリアの声を聞き逃してしまっていたらしい。

 二人とも料理はとっくに食べ終わっている。けれど、

「趣味とか価値観とか何から何まで同じで。あんな人と出逢えるなんてほんと奇跡。この間だって――」

 川上さんは相変わらず饒舌で、話が終わる気配は全く見えなかった。

 ――それ、単に相手が合わせてくれてるだけなんじゃないかな……。

 なんて水をさす発言は心のうちに留めて、私は再び水で口を湿らせ始める。職場ではスケジュール通りきっちり仕事を仕上げてくる姿に慣れているせいか、目の前の彼女にはかなりのギャップを感じずにはいられなかった。

 正直、川上さんの話は独り身の傷口に砂糖をまぶすようなそれ。独身の白井さんにはかなりの責め苦だったに違いない。

 ただ、今の私は耳よりも目を背けたい気分だった。川上さんの浮かれた様子が見ていられない、という訳ではなく、理由はもっと別のこと。

「彼とは運命の赤い糸で結ばれてる気がして――ってどうした?」

「ごめんなさい、ちょっと目にごみが入ったみたいで。それで?」

「ええ、映画館に二人で行った時のことなんだけど――」

 ――気をつけないと。

 瞬間、私は顔をしかめる自分自身を止めることができなかった。

 運命の赤い糸。お手軽な愛情表現として使い古された言葉だけれど、私は欠片もロマンを感じることができない。

 なぜなら、現実としてそこにあるから。私の前に、はっきりと。

 例えば、視界の端に映るカップル。テーブルの下で足を絡ませる二人の間には、くっきりと一本の赤い糸が私には見えていた。

 人の身体から伸びる糸。それは私の日常に当たり前としてある存在だった。

 その先は必ず他の誰かと繋がっている。互いの間で糸をやりとりしている人間は寄り添い、決まってこれ以上ない幸福に包まれていた。

 ――……お熱いことで。

 どうやらここはカップル御用達の店らしい。周りを見れば、誕生日会の輪っかつづりのように、そこかしこに糸が入り乱れていた。

 糸が見えるのはどうやら私一人だけ。幼い頃はそのことを特権のように感じていた。それでスピリチュアルな使命感に燃えたこともあったけれど――今やそれは私の黒歴史となっている。

 ただ、今の私にそんな全能感はない。それどころか、異色な光景を見せるこの力を疎ましく思うようになっていた。

 長い間、不思議に思うことがあった。それは糸の見えない人間がちらほらいること。私の両親もそのカテゴリーで、いくら目を凝らしても繊維の一本さえ見つけられなかった。

 その答えがずっと分からずにいた。その疑問が解消されたのは、危篤のお婆ちゃんとの最期の会話だった。

『早代、あんた……糸が見えるね』

 ずっと誰にも言わずにいた秘密を唐突に指摘され、息を呑んだ。そんな私をよそに、

『いいかい…よくお聞き』

 途切れ途切れの声で、お婆ちゃんは続けた。

『そこに無い糸は…見えないんじゃない……元から無いんだよ。だから………』

 お婆ちゃんの言葉は最後まで続かなかった。代わりに少しだけ笑い、そのまま息を引き取った。

 だから、お婆ちゃんがなぜそれを私に伝えたのかは今でも分かず終い。ただ、その言葉を私はこう解釈している。

 ――糸の見えない人間は望み薄。

 そして、それは私にも当てはまること。糸屑一本さえ見えない、私にも。

 というわけで、私は期待するのをやめた。大分前から一人で生きていく覚悟はできているし、両親が離婚する可能性もちゃんと勘定に入れて生きている。

 ――……私ももういい大人だしね。

 私周りのことはもう何が起きても驚かないし、動じない。そんな心構えがある。諦観している。

 けれど、他の人のことになると、まだどうしても心が揺らいでしまう。

 川上さんはまだ幸せそうに恋人との話をしている。そんな彼女を見て、

 ――……残酷。

 私は人知れずため息をついた。

 残念ながら、川上さんも糸が全く見えない人間だった。

 ――教え…たって意味ないよね。

 こんな話、誰も信じてくれないのは子供の頃に嫌というほど学んでいる。大体こんな救いのない話、一利もないことは分かりきっていた。

 だから黙って見過ごすのが最善。

 とはいえ、どうしてもやはり気になってしまう。

 ――なんでこの人はこんなにも踏み込んでいけるんだろう?

 色惚けしているから、と言ったらそれまでだけれど、いつもの川上さんはリスクヘッジができるという印象。そんな人がアクセルを踏み込んでいる姿には違和感を抱かずにいられなかった。

 だからなのだろうか、気づけば声が出ていた。

「……もし」

「――っと、どうした?」

「あっ。えっと……」

 私自身予想外だった発言に慌ててしまう。けれど、

 ――もう全部言っちゃえ。

 一度息を整え、尋ねた。

「彼と赤い糸で結ばれてなかったとしたら、どうします?」

 川上さんは一瞬黙った。ただ、その後の回答は早かった。

「どうもしないわね」

「……え」

 思わぬ答えに私は瞠目してしまった。

「どうしてですか」

 反射的に私は食い下がっていた。

「上手く行くって保証がないんですよ? むしろひどい終わり方をする可能性だって――」

「そんなの元々じゃない」

 川上さんは私の言葉をすぱっと切った。

「人との付き合いなんてどこかで駄目になっちゃうのがデフォ。お互い変わっていくしね。だから」

 川上さんは微笑み、そして言った。

「今に少しでも繋がれる時間があるのなら、どんどん幸せを感じちゃった方が得だと思うの」

 その時、彼女の笑顔がお婆ちゃんの笑顔と重なって見えた。

 ――ごめんね、お婆ちゃん。

 その笑顔は一際輝いて見えた。それはきっと、気のせいではないはずだ。

「っと、そろそろ時間ね。戻りましょうか」

 川上さんはすっと席を立ち、伝票を手にそのまま会計場所へと向かっていった。

 ――今度は私からお昼に誘おう。

 先輩の背中を追いながら、そう心に決めた。

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