彼女はすぐそばにある案内地図の看板を眺めていた。僕はその背後で彼女に尋ねる。

「あのさ、どこに連れて行くつもりなの?」

「とりあえずレストランよ、ここじゃ話もできないでしょ」

 もうしばらく地図を眺め、彼女は無言で歩きだす。近くの交差点を見つめるが、結局、横断歩道を渡らず右に曲がる。彼方には、坂が見えるが、その手前辺りに見覚えのある看板があった。近づくにつれ、フェミレスチェーンなのが確信的になってきた。店にこだわりはないが、レストランと言われると少し期待してしまった。そんな自分が間違っているのだろうか。

 店は2階だった。急な階段を上る。二重扉になっている入口部分だが、中の待合スペースはガラガラ。店に入ると店員が「お好きな席にどうぞ」と口頭で案内した。彼女が選んだ、むかって右奥のソファに腰掛ける。

「何か食べます?」

「さっき食べたんだ。気にしないでくれ」

 メニューを開く彼女。裏のドリンクメニューが目に入るも、その下のデザートメニューは余計に気になる。するとメニューが閉じられ、僕は向こうの窓に目をそらした。店員がお冷を持ってくる。店員の呼びかけに彼女は「ハンバーグステーキとミニライス」と答えた。

 店員が僕に目を向けた。「ひとくちバニラアイスで」誘いに負けたような気分だったが、この程度のデザートくらいなんてことないだろう。

「それだけ?」

「食後のデザートだよ。それはいいから、話すことがあるんだろう?」

「あぁ。じゃあ何を聞きたい?」

「いや、僕は何も知らないよ。でも、なんで君があそこにいたのかは気になるけどね」

 成り行きの質問に、彼女はひとつため息をついた。

「暇つぶしのつもりだったの。あの辺で人がいなくて遊べる場所は、あそこがいちばん良かったから。逆にあなたはどうして?」

「僕は帰りのついでだよ。あの目立つ看板が気になったから入って、懐かしいゲームをやっただけ。そうしたらこんなとこまで来て、びっくりさ」

「似たようなものね。あなた、私なんかに付いてきて大丈夫だった?」

「どういう意味……別に大丈夫だけど。それを言うならあの金髪はなんだよ?」

 すると、少しうつむいてまたひとつため息をつく。いちいち、見せつけているみたいで鬱陶しい。

「あれは関係ない。私がサボったら連れ戻しに来ただけ。本当はあんな態度はダメだけど、犬猿の仲ってことでやりあってる。でも今日はマジで頭にきたから、椅子で叩いてやったわ。そこまでされたら、あっちも黙ってられなかったのね」

「あんまり聞きたくないなぁ。そういうの、僕は嫌いだよ?」

「きっと大丈夫。迷惑はかけないわ」

 やたらそこら辺の『安心して』的なことを上機嫌に言う。ウソかマコトか、僕は真偽という言葉のまことを取りたい。そんなことより、僕にはもう迷惑は十分かかっている。

「だったら聞くけど、なんでそういうことになるんだよ。普通にヤバイんじゃないの?」

「確かにヤバイわ。でも、そんなもんよ。別に苦にはならないし、傷は付かないの」

「将来不安だね。ロクな大人にならないよ」

「すぐに人が変わるわけじゃないから、もう大人になっても変わらないわ。でもきっと、私はQさんみたいになるんだから」

「Q?」

 狙われたように出てきた言葉『Qさん』だったが、僕は言い返した途端に思い出した。あの変なボーカルグループ。Qとかいうセクシー黒服の女。

「知らない? 今日もテレビ出てたよ」

「それは見た。でもなんで、あの女みたいになりたい?」

「そんな風に言わないで。頭ごなしにされるのすごいイヤ。類いが違うだけで、それが私の夢なの」

 愉快なもんだな、と率直に伝えると、ミニライスにひとくちバニラアイスが運ばれてきた。皿の上にちいさなアイスの山が3つ盛られている。端の無作為なミントの葉がやたら大きくて、イメージは最悪。本当にひとくちで食べ終えてしまいそうな量だ。

 流れてきたものに不満と愚痴を少しこぼしていたら、ハンバーグステーキが向こうに置かれた。ハンバーグをいきなりフォークで刺し、ガブリと食らいつく。どこかで見たかった光景を目の前で、華奢な女がやっているとは。

 特に意味はないが、ずっとその食いっぷりを眺めていた。ただし、ここのバニラアイスはもうごめんだとわかった。段々ヒマになってくる。携帯電話なんかをいじっても、特に面白いことはない。そんなところでわずかな時間稼ぎと、トイレに出向く。

 男子トイレに入ろうと扉を開けていたら、彼女が駆け寄ってきた。

「自分の携帯、大事にしたほうがいいよ」

 差し出された携帯。

「ごめん」

 彼女は笑顔を見せる。そのまま席に帰っていった。トイレ中、たったいまのできごとが頭から離れなかった。もしかしたら、一生そのままかもしれないくらい、間違いを細かに突かれた気分。

 彼女が食べ終えてすぐ。ろくにくつろぎもせず、このファミレスを出る運びとなった。そういう体質をしているらしい。「奢るよ」若干惜しいなけなしの札を出そうとしたが、彼女は譲らなかった。変に妥協しない。

 だが、会計は千円ちょい。思いの外安い。安いせいでお釣りの分配に苦労した。相変わらず急な階段に足を取られる。外に出て、歩いてすぐ。大観覧車はまだライトアップしていた。

「まだ何か用ある?」

「特にー?」

「結局、何の用だったんだ?」

「わかんない」

 困ったが、もうもう会うこともないだろう。一夜の戸惑い、これで忘れよう。あるいは、できの悪い思い出か。

「あのさ、水道橋すいどうばしってどっちかわかる?」

「あっちじゃない?」

 坂の方を指さした。

「水道橋まで行くの? 私も付いていっていい?」

「別にいいけど、水道橋までにしてくれよ」

 彼女はうつむく。坂まで無言。僕の真横をひたすら付いてくる。ふと聞かれる。

「ちょっといい? あなたの名前は? 私はナオ」

「なんで? これっきりのはずでしょ」

「もう聴いたじゃない。あなたの名前、聞かれたらそんなに困るの?」

「そうじゃないけど……陽介だよ、陽介」

「ヨウスケねぇ。なんか普通!」

 やたら僕の名前を言う声がでかい。タメにならないと言いたいところだが、別にいい。彼女、ナオのことなど僕の知ったことではない。坂を上りきると高架線が見えてくる。先は水道橋駅。夜のネオンが若干伺える都会の駅近くになってきた。

「じゃあ、この辺でどう?」

「いいわ。それと、カードを返してくれない?」

 カード? 服のポケットを漁ると、それは出てきた。地下鉄に飛び乗る時に使ったカード。

「ありがと……お返しに、これを貰ってくれない? 返さなくていいものよ」

 言いながら差し出したのは、名刺らしき紙。文字を読もうとしたら、「それじゃあね!」

 元気よく僕に手を振り、彼女はさっきの坂の方に走り、あっという間にその背中がネオンの影に暗くなる。背中を見届けて、僕は駅の改札口に定期券を通す。乗り込んだ中野なかの行き。飯田橋いいだばしまでの間に、車内の灯りでオレンジ色がよく見える快速電車に追い抜かれた。

 ふと見た名刺。ナオとあり、右下には手書きで携帯電話が添えられている。まるでキャバクラ。意味がわからないが、とりあえず見なかったことにするため、財布の奥深くに仕舞った。

 普段は錦糸町きんしちょうまで行ってるから、今日この区間を通るのは3回目だ。行きと帰りともう一度の帰り。見るものもなく、飽きるわけでもなく、やや混み合う各駅停車を終点の一つ前で降りる。

 春日から水道橋まで行っただけなのに、偉いくらい初めての体験をした気になれた。こんな帰り方は普通なら絶体ないと思う反面、マトモならそんなことさえ思わないと感じる。

 自分のなかでは、それをデジャヴュと言うのだろう。

 滑り込んだアパートの一室。敷きっぱなしの布団に靴下を脱いで飛び込む。灯りは豆電球にした。部屋はオレンジ色の光に薄く照らされる。

 よくよく考えれば、ひとつだけやることがあった。すこし足が楽になったところで、両刀使いのように歯磨きとトイレを同時にする。粋な時間短縮のつもり。一応カバンの中を覗くと、コンビニで買った週刊誌の表紙が薄暗くも輝いて見える。

 三十路まえの男、それが僕だ。雑多な芸能関係の情報。知らないアイドルたちのグラビアが続く。インタビューページの詰め込まれた文字。読むことさえしない。僕は漫画ページを流したところで、雑誌を投げるように部屋の畳に置いて、布団に潜った。豆電球を消すのに一度起きるのが面倒だったが、仕方がない。それが電気を消すときの定めだ。


    ■


 夢も見ぬ朝。ちょうど、そこの道路をバイクが轟音を立てて通り過ぎたところだ。目覚めはそんなに悪くないが、体が痛い。すべてが砕けそう。カーテンの隙間から部屋に差し込む光は真っ白で、曇りだということを物語るみたい。ひとり6畳間。部屋の時計は9時過ぎを指している。

 こんな休みに絶対やらなきゃいけないことは特にない。ただ食いつなぐために買い出しをするだけ。または、映画館にでも行くか。そんなこんなで僕は正直、ヒマだった。晩までゴロゴロするくらいなら、楽しいことをしたい。

 それこそ夏場なら友人のツテで湘南海岸にでも遊びに行くだろう。ただし、その友人が女の子を連れてくるならの話。いまはそんな夏の架け橋みたいな季節だから、夏とは正反対の楽しみで済ませなきゃならない。正反対の楽しみがないわけじゃないが、どうも半年後を思うと足りないものがある。僕は携帯で『シュン』に電話した。

「シュン、今日は大丈夫?」

「全然。いつでもOK」

 導かれるようにシャワーを浴びて、適当に服を着る。身なりはなんでもよかった。アパートから徒歩5分、山手通りの歩道から大江戸線の入り口を下る。階段から改札までの無機質な地下通路は短かった。人のいない改札口、駅員が棒立ちしている。初乗り往復切符は320円だった。週末だけの楽しみを味合うための最低費用。

 長いエスカレーターを下り、ちょうどやって来た光が丘行きはガラガラだったが、豊島園としまえんにでも行くであろう家族連れが騒がしいながらも微笑ましい。子どもとはそういうものだ。すぐに中井なかいに着く。わずか1、2分の乗車。

 再び長いエスカレーターに乗って、上に出る。ごちゃごちゃした駅前を過ぎ、とっくの昔にコンクリートに挟まれてしまった妙正寺川みょうしょうじがわ沿いを行った先の一軒家に着く。辺りは住宅街と化していた。

 僕にとってこの家は第二のマイホーム。もっとも、シュンの家だが。

 インターホンを鳴らすまでもなく、2階の窓からシュンのボサボサ頭が伺えた。シュンはいつもそうやって、僕が来るであろう時間を予測して部屋の窓を開け、それらしき足音を認めると、嗅ぎつけたかのように僕を見下ろしてくる。すぐ1階に降りて僕を中に招いた。

 リビングに通される。そこにはシュンの母さんと父さんがいた。母は何やら料理をしていて、父のほうはリビングテーブルに腰掛けながら新聞とテレビを交互に見ている。

 シュンの親父はつかさといって、デザイナーをやってる。関わった雑司が谷だかの雑居ビルを巡り巡って大家として管理しているらしい。口を訊いたことはほとんどない。司オヤジは麻雀だかで雑司が谷に出ることが多く、この時間には家にいないことが多いからだ。

 ただそれだけなのだが、司も僕のことをあまり知らない。シュンは僕のことを母以外にほとんどしゃべらないし、そもそも滅多に会わないしで。どこに住んでる、どんな家だ、どんなデザインだ――後半は答えにくいデザイン関係の質問ばかりで、運ばれてきた朝食にホッとした。

 土曜日の朝はよほどの大雨でも降らない限りは大抵、ここで朝食を済ませる。東京に出てきてからずっとこの調子。依存もいいとこだが、シュンの母は心が広い。

 ウインナーに卵焼き。ご飯に味噌汁。醤油備え付け。ご飯モノとパンモノを一緒にしたような並び。三分の二の確率で、この料理が並べられる。それでもこっちは食べさせてもらってる身だから、何度かぶっても文句を言う資格はない。飽きないから別に良いのだが。

 テレビはくだらないワイドショー。流行りのスイーツ、行列! 大盛りラーメンのなぞ特集。金のかからなさそうなグルメ企画で、インパクト大のオネエタレントが声を荒げてテロップのウリ文句に突っ込んでいる。

「チーズいるかしら」

 シュンの母が言う。冷蔵庫から取り出して見せてきたのは6Pチーズ。残り二つで、僕は一つ取った。もう一つは隣の司オヤジが無言で取り、無言でむしゃむしゃ食べる。

 シュンは飽きたのか、僕を置いて2階へ去った。続きでも思いついたのだろうか。シュンは漫画家だ。昔から絵が上手い奴で、漫画コンテストに参加して大会受賞。鳴り物入りで『週刊ワクワクキャップ』に連載が決まりデビューしたが、そのワクワクキャップはすぐにダメになった。

 数ある少年漫画誌の中でもいちばんの硬派で、カバーガールなど門前払い。最後だけやってたが、ビキニガールはついに載せなかった。誰も知らない老齢漫画家のインタビューを載せたりして15年前くらいに飽きられたと、シュンから聴いたことがある。

 部数を減らしながらもワクワクキャップ流のスタイルをなんとか貫いたが、97年3月末を持って廃刊。あえなくシュンの連載は立ち消えになった。しかし、実力が味方したのかもっとキチンとした漫画誌で新連載が始まり、シュンは自称『青年漫画家』に転身した。順調な人気を経て、漫画は去年OVA化もされた。

 そんな漫画家の正体を僕は知っている。この中井の町に住み着いて離れないシュンと出会ったのは上京してすぐのことだった。僕は最初、鷺ノ宮のボロアパートに入って近くの書店で書店員のバイトを始めたのだが、思い出したくもないその職場にシュンはいた。

 どうやら漫画と一緒にありたいみたいな理由だったらしいが、同年代の僕とシュンは先輩によくイビられた。特にシュンは役立たずだったみたいで、いちばんの標的にされてしまい、泣きながらバイトを辞めた。

 そういう弱い立場同士だったから、悩みを訊いているうち意気投合してプライベートの隔たりが薄くなっていった。結果、いまのような『中井通い』があるわけ。

 朝食を食べ終え、お皿を洗う。お礼のようなものだが、いい加減もっと大きなお礼がしたい。2階を覗きに行くと、シュンはノートパソコンのキーボードを叩いていた。「いま大丈夫か?」一応尋ねると、シュンは右手で丸を作る。

 シュンは最近、小説を書いている。漫画家の次は作家になって書き物を極めようとしているらしい。実際、去年『鳴り物入り漫画家成功の秘訣』とかいう自慢げなエッセイを出してたから、小説もいける口と思ったのだろう。

「どの辺まで書いたの?」

「いいとこまで」

 答えが曖昧なのは連載が決まるかもしれないということだった。それに伴って内容と中身は一字一句まで見てないし、知らない。

「連載はどうなる? 決まったら一応依存、読ませてもらうけど」

「え〜、それがね、決まっちゃったんだよ。来月あたりに『月刊サスミス』に載る」

 初耳だった。いや、決まって良かった。これで作家デビューへの道が開けたというわけか。無論、その中身は未知の領域だがOKサインが出たのは確かなことだ。編集部に認められた、シュンの小説。どんな中身か気になってきた。

「マジで、おめでとう。月刊サスミスだね。チェックしておくよ」

「誰にも言うなよ。親は漫画に興味ないからいいけど、小説はわからないからね。ひっそりとさせてくれよ!」

 延々とノートパソコンの画面を前にして、手を小刻みに動かしながら僕に言う。キーボードが奏でる暴力的な不協和音と同じくらいに、シュンの発音は不確かだ。

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