その後、何事もなく滝野川まで歩いた。交差点からはものの10分程度。わざわざ歩いたのはここまで来てバスを使うのは逆に荷が重かったからだ。どうせ友人も10分や20分、僕がいなくても構いやしないだろうし。

 その友人・さとしとは結構長い付き合いだ。僕は元々、山梨にいた。高校でダチのダチみたいな距離感になって、3年生に上がる頃にはお互いれっきとしたダチに名を連ねていた。いまは職場は違うし、近所でもないが経済的な事情とかで、お世話になることも多い。

 あいつは4年前に結婚した。すぐに子供ができて、思い切って滝野川のマンションに引っ越した。それまでは郊外のアパート暮らしだったかな。よっていまは、聡と同年代の妻・美穂みほと3歳になる長男・幸太こうたくん、もうすぐ1歳の長女・咲玖さくちゃんの4人で暮らしてる。それが、若狭家の家族構成だ。

 いま僕がいる明治通りの左手が滝野川、右手が西巣鴨。明治通りはそんな二つの地名の境界線にもなっている。ここらでちょうど歩行者信号が変わったので信号を渡る。少し行ったところを曲がると住宅街。さらに1〜2分。十年ほど前に建てられたマンションの5階に上る。奥の部屋でインターホンを押すと、聡の奥さんが出てくれた。

陽介ようすけさん、いらっしゃい」

「どうも、遅れました。おじゃまします」

 靴を脱いでいると、聡が幸太を連れて出てきた。

「幸太、陽介兄さんだぞ!」

 反応鈍い幸太くんは、どうやら早いところの人見知りらしい。

「もう、咲玖を見ててよー」

 子どもは何をするかわからない。奥さんは心配したのか咲玖ちゃんを見るため、リビングに行ってしまった。とは言え僕も聡もすぐにリビングに行くのだが。

 時刻は7時を過ぎていた。腰掛けた座布団の斜め前のテレビ。奮発して買ったという15インチの液晶テレビは歌番組の特番をやっていた。奥さんは夕食を作り上げるため、子どもたちを聡に託す。

「美穂、今日はなんだっけ?」

「朝言ったでしょ。最近忘れっぽいんだから」

「ごめん。言い訳になるけど、最近また仕事が忙しくなってさ……」

「いいのよ。今日はカレーよ」

 それだけ言って奥さんはキッチンへ出ていく。

「咲玖、今日はカレーだぞ、久しぶりだな」

 右隣の聡はまだまだちいさい咲玖ちゃんを膝に座らせ、語りかけている。幸太くんは机を挟んだ正面に座り、おもちゃ片手にまだ来ぬ夕食を待っていた。咲玖ちゃんに語りかけることもなくなったのか、聡はそばのリモコンを手に取る。

「ちょっと音上げていい?」

「もちろん」

 どうやら好きなアーティストの出番のようだ。テレビには「QA」というアーティストが紹介されている。わざわざVTRを流しての紹介。

「『QA』とは、元グラビアアイドルのQが頭文字に『A/あ』が付くAki、Ami、Arikaの三人と結成したボーカルグループ。セカンドシングル『夜空』発売を控えた『QA』がまもなく、特別演出で夜空を披露!」

 パターン化されたナレーションが耳に障るが、紹介の限りでは嫌いじゃない感じ。

「気に入ってんの? これ」

「いや、まえに駅前で歌ってたんだよ。巣鴨の駅前。じいちゃんばあちゃんにあんな歌を聴かせてると思うと、気になって足が止まったよ」

「で、肝心のじいちゃんばあちゃんは聴いてたのか?」

「それが、十人くらい手拍子で応援してるんだよ。わかってもないと思うんだけど、なんか楽しんじゃって」

 中々面白い連中だな、と思っていたところでステージが映し出され、登場口から出てきた「Q」。ロングヘアに黒服で、胸元をほとんど全開にした格好が「元グラビアアイドル」という触れ込みを納得させるが、かと言ってお姉さん雰囲気が強いからか、僕がイメージするグラビアアイドルとは程遠い。

 歌も攻撃的で、上手いのだがここ最近の流行り、若者が好きそうなものだ。

「お前が好きなのってどこだよ。僕はあれを見て訊いてるんだぞ?」

「いや、ちょっと待って。ちゃんと見るからさ」

 歌いだして少し。咲玖ちゃんを抱え、気をつけながらテレビの前に向かう聡。最初からそうしていれば良いものを、慌ただしいものだ。『QA』のパフォーマンスはおよそ2分ちょいで終わった。サビの盛り上がりは耳に残ったが、僕の隣に戻ってきた聡は満足そう。咲玖ちゃんはなぜか笑顔だった。

「だからー、このQがすごいんだよ」

「黒服の娘ね?」

「うん。だから、昔アイドルだったってだけで片付けられないんだよ。5年くらい前にデビューしたんだけど、そこがちょっとヤバイ事務所で、苦労して抜け出して本当にやりたいことを見つけたんだ。そういう意志と力強い歌声に、あの、ほら、なんか変な名前のプロデューサーがグループを作って、彼女の夢を叶えたんだ」

「いずれにせよ、若者グループなわけだね。グループ名もキューアンドエーだし……」

 キッチンから出てきた奥さんは、カレーライスの載った皿を両手に持ちながらやって来た。僕と聡の前に置かれた大皿。

「あの、手伝ってもいいですか?」

「えぇと……」

 少し重そうにしていた奥さんが気がかりだった。しかし、僕が咄嗟に問いかけたからか、奥さんは困ってしまう。無理もない。僕は謝ろうと思ったが。

「やらせてもいいだろ? 手伝いしたいって言ってるんだから」

「じゃあ、お願いします」

 奥さんに付いていき、キッチンに出る。すでに盛り付けられたサラダ。ドレッシングまでかかっていて、用意がいい。僕はとりあえずそれを持ち、テーブルの真ん中に置く。往復して子どもたちが使う小皿とスプーン・フォークも持っていく。その時には、奥さんが自分と子どもたちのカレーライスも持っていったため、食卓にすべてが揃った。

「あれ、何か足りないなぁ」

 そうつぶやくと、聡は咲玖ちゃんを奥さんに渡してキッチンへ。冷蔵庫を開け閉めする音がして、聡は缶ビール片手に戻ってきた。

「あら、飲むの?」

「もちろん」

 腰掛けた聡は缶を開けた上で「それじゃ、いただきます」と言った。続けざまにみんなで言い合うようにして、食事が始まった。

 しばらくの楽しい時間。友人とその家族と食事をするのは約2週間ぶりだった。帰りが遅くなったり、翌日の都合と疲れもあって恋しいながらも足を運べなかったが、やはり良い。僕のなかで金曜日はこのためにあると思う。それは、土曜日という休みの日は別次元の何か。

 食事を終え、くつろいでいるとトイレのついでに奥の一室に入った聡が物を持って来た。

「これがQAのCD。悪いこと言わないから、取っとけよ、お前のためだぞ?」

「良いのか? じゃあ、ちょっと借りるよ」

「ああ。一回で良いから聴いてくれよ」

「うん。あ、じゃあそろそろ帰るわ」

 CDを土産に、僕は若狭家一同に見送られながら家を出た。「また来いよ」と、聡は毎回口にするが、今日もそう言ってくれた。外の廊下は薄暗く、ビルに阻まれない限りではあるが、少し遠くの都市風景まで見渡せる。

 無人のエレベーター。これほど悲しいものはないだろう。僕はいま、この東京では独り身だから、家に帰っても迎えてくれる人はいない。こうして友人の家に来ても、結局は迎えてくれる若狭家みたいな人の元から離れてこのエレベーターに乗る。

 暗い路上はまだ人の気配がするものの、あまり好きではない。ビルに挟まれたこんな路上。明治通りは物々しく朝から晩まで車が行き交う。途絶える様子を見たことはない。

 いつも、この明治通りに出ると迷うことがある。バスで池袋に出てJRで帰るか、それとも西巣鴨から地下鉄で水道橋に出て、やはりJRに乗るか。おそらく池袋に出たほうが早いだろう。だが、たまには地下鉄に乗りたいときもある。

 僕は左に進路をとった。向かうべくは、西巣鴨。地下鉄の駅近くはあまりなにもない。だが、駅の入り口近くに少し目立った看板がある。暗いからか、光るその看板は人目に触れやすそう。

 ゲームセンター『巣』。西巣鴨という場所から取ったのか、たまり場的意味なのか知らないが、僕は店先に置かれた瓶コーラの自販機に目を奪われた。久しぶりに見かけた瓶コーラを飲まずにはいられなかったのだ。味は普遍的なものだが、雰囲気が違う。イマドキのコーラに慣れすぎると、新鮮に思えて仕方がない。

 コーラもほどほどに残して、僕はゲームセンターの横開きドアを開いた。山梨の田舎でやったことのある格闘ゲーム。見慣れたシューティングゲームのデモプレイ映像。画面の右に寄って、雑魚キャラの砲弾にやられる。あの頃見たデモプレイ映像と何も変わっていないので、思わず僕はそこの両替機で千円札を100円玉に変えた。


    ■


 僕はゲームが得意ではない。正確にはシューティングゲームが苦手なのだ。いつも最初のボスで必ずやられる。性懲りもなく注ぎ込まれる100円玉がもったいなかった。最後の100円玉も、儚く散るのだろうか。

 思えば、恐ろしくなるくらいに人がいない。奥にいる一人の若い女を除いては。ゲームは正常に稼働しているし、両替機だってきちんと札をくずしてくれた。でも店員らしき人の姿はカウンターを覗いてもなかったし――。

 そうしたら、すぐにやられた。最後はボスにもたどり着けず、無残な爆発。下手さ加減に、誰も見てないのに恥ずかしくなってくる。僕は背もたれのないゲーセンの椅子にこれでもかと深く座って、撃沈の様を演じた。するとドアを荒々しく開ける音がして、ガラの悪い若者三人が入ってくる。

「げっ、珍しいなこんな時間に」

「リーマンさん、ストレス発散できました?」

 先頭に立つ金髪青ジャージがが訊いてくる。

「いや、全然。1面のボスも倒せなかったよ」

「そりゃ残念だ」

 若者は奥に消えた。少しして、奥が騒がしくなり、やめてよ、と喚く声が聴こえる。さっき見た奥の女をナンパして、強引に連れて行こうとでもしているのだろうか。僕は正直、関わりたくなかった。さっきも似たようなのに追い回されて、かなり参ってるからだ。

 静かに抜け出そうと立ち上がったその刹那、奥で何かを叩きつけるような、異質な音がした。それも大きく、力と怒りが交差する乾いた音。直後、男声でてめぇ、と怒鳴りつける声。激しい足音。僕は悪い予感がして、急いで店先に出てドアを開けた。後ろを向いた瞬間、さっきの女が駆け寄ってきた。

 ぶつかりそうだったから、そこをどく。歩道に出て、僕はその女を見た。目が合った瞬間、女は僕の手を掴んできた。引っ張ろうとする力に僕は応えない。

「何するんだ」

 そして、ゲーセンの中から出てきた若者三人。先頭の一人は頭を抑えていた。さっきの音は、何かで殴られた音だったのか。

 またも先頭の男が言う。金髪青ジャージ。

「おい、なんだ、こいつお前の男だったか。そんな得体の知れない男といるからだめなんだよ!」

 わけもわからず、僕は少し引きづられる。

「だからなんなのよ!」

「リーマンよお、早く離れたほうがいいぜ? いい仲なのか知らねえけど、こっちは黙ってられねえから」

 金髪は格闘技の構えをしてきた。宣戦布告のつもりだろうか。僕は思わず一歩身を引いて、数秒の沈黙。それでも車道側は引っ切り無しにトラックが走り抜けていく。次に身を引っ張られた瞬間、反動で転びそうになる。よろめくが、女はまだ引っ張ってくる。背後を見た瞬間、青ジャージが迫ってきていた。

 女に引っ張られるまでもなく走り出した僕は、女に先導されるかのようになり、気づけば地下鉄の階段を降りていた。実は階段が苦手で、手すりに掴まらないと怖い思いをすることもあるのだが、いまは夢中になって駆け下りていた。

 途中で横2列になって階段をゆっくり上ろうとする老人とすれ違う。後ろから「どけ」という罵声が聴こえるも、僕はその時には階段を降りきって、駅の改札に続く通路を走り出していた。狙ったように、その足が早くなる。改札口が近づいてくると、女はポケットから何かを取り出し、僕に差し出した。受け取ったのはカード。

「それ、改札口に突っ込んで!」

 言われた通り、カードを改札口に通した。無事に改札は開くが、後ろから「待て!」と、奇声ばりの破れたような声が聴こえる。それでも足を止めることなく、僕は階段を駆け下りる。見ると、右手のホームに電車が滑り込む。少し安堵し、足の速度を落とす。一瞬よろめきそうな錯覚を覚えるが、なんとか階段を降りきって電車に飛び乗った。

 車内はガラガラ。息を切らした僕と女は、誰もいない座席に遠慮なく倒れ込む。気づけばドアは閉まり、わずかに動き出す電車を前に喚く三人の鬼のような面が末恐ろしい。

「なんで、巻き込んだんだ、僕はあんたのこと、知らないよ」

「わかんない……けど、ここまで来たんだから許して」

 彼女は息を吐いてばかりではなかった。手を掲げるような仕草をしながら、僕に謝ってくる。電車は巣鴨で少し客を乗せ、僕は端の席にきちんと座り直す。だが彼女は、僕とは正反対の席に移った。千石、白山。通ったことはあるはずだが、聞き覚えのない地下鉄の駅を過ぎ、春日の手前。

 彼女はおもむろに立ち上がり、「私つぎで降りるけど……あなたも付いてきてよ」「どうして?」「その、お詫びがしたいから」僕は半分呆れていたが、今日は帰って寝るだけでいい。それに、ここで無視したら逆に申し訳ないというか、勿体無い気もするだけ。僕は「まぁいいよ」呆れつつもそう言った。むしろ清々しい。

 降り立った春日かすが駅。連れられるがままに、広大な地下通路をくねくねと進み、たどり着いた出口は大通り沿い。見覚えはない。後ろを見上げると、観覧車がかすかに見えた。動いているのか、しばらく静止しなければわからないが、どうもゴンドラのライトは灯っている。

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