そのに
「わああああああ!!!!!」
車はスリップして道路を崖目掛けて突進していった。
幸いと言うのも彼にとっては申し訳ないのだが、タヌキは難を逃れて雪深き林の向こうへと消えていった。
(なんで…なんでなんだ!!)
彼は悲鳴を上げていた。
どうしてこんなことになったんだ?
こんなはずじゃなかった。
リストラはされたが、前の会社に未練があったわけじゃあない。
今度の仕事だってきついことはきついが、楽しい仕事だと思っていた。
買ってくれる人たちも人情は厚いし、そんなわけで売れ行きもいい時が多かった。
しかし、いい時ばかりじゃない。
思うように売れない日だってある。
そんなことはわかっている、わかっているんだが。
だが、人間疲れているとネガティブな思いに囚われてしまう。
「どうしてなんだ。どうして今日はみんな買ってくれないんだ?」
彼は叫ぶ。
「こんな…こんなとこで死ぬなんて……」
そう。
こんなとこで死ぬことになるなんて。
妻の元に帰らなくちゃならないのに。
ジャンが死んでしまって、悲しみに暮れてる彼女を、俺が慰めてやらなくちゃならないのに。
こんなとこで死ぬなんて!!
「みんな……みんな……パンを買ってくれない奴らのせいだ───!!!!」
次の瞬間。
彼の乗った軽トラが崖を飛んだ。
───ズザザザザァァァァァ!!!
「パンをぉぉぉぉぉぉ!!!買ってくれぇぇぇぇぇ!!!!」
──タァ~ラァ~ラ、タァ~ラァ~ラ♪
彼の悲痛な叫び声と、軽トラから流れるバイエル74番が重なった。
誰もそれに応える者はいなかった。
ただ、雪だけが後から後から降り続け、まるで彼を見送っているようだった。
それから後───
毎年雪が降り出す頃、五人地蔵近くの崖下から、ピアノ曲が聞こえるようになった。
それは、あの男が乗っていた軽トラから流れていた曲、バイエル74番だった。
そして、そのピアノ練習曲が聞こえる日は、必ず男の悲痛な声がそれに重なるように聞こえてくるという。
「パンを………買ってくれぇぇぇぇ………」
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