そのいち

「わあああああああ!!!!」


 彼の乗った軽トラはスリップを続けて崖に向かって滑りつづけた。

 彼は思わずぎゅっと目を閉じた。

 閉じる瞬間にすれ違うタヌキと目が合った。


(俺は死ぬのか?)


 一瞬見たタヌキの目が忘れられない。

 タヌキに感情があるのかはわからないが、確かにタヌキの目には憐れみを感じた。


 これが運命か───


(俺は死にタヌキは生きる……か)


 そして車が崖を飛んだ瞬間、彼は愛する妻のことを思い浮かべた。

 軽トラは、バイエル74番のピアノ曲を流しつつ崖下へと転落していく。




「ん……」


 それからどれくらい経ったであろうか。

 男は生きていた。

 落ちた場所に雪が積もっており、どうやらその雪のおかげで車は大破を逃れたらしい。

 だが、すっぽりと車は雪に埋もれており、動かすのは無理のようだ。


──タァ~ラァ~ラ、タァ~ラァ~ラ♪


 バイエル74番だけがずっと流れている。

 彼は止めようと思ったが、もしかしたらこの曲を聞きつけて誰かが見つけてくれるかもしれないと思いとどまった。


「携帯……」


 彼は気付いた。

 携帯で助けを呼べばと。

 しかし、携帯は壊れていた。


「くそ……」


 幸い彼はどこも怪我をしていなかった。

 だが、車のヒータも止まってしまい、だんだんと寒さがひどくなってきた。

 このままでは凍えてしまう。

 いったい今が何時なのかはわからない。

 助けがくる気配はないし、まだ自分が事故を起こしたことも誰も気付いていないかもしれない。

 ここで助けが来るのを待っていたら、せっかく助かった命なのに凍え死んでしまう。


「よし」


 彼は決心した。

 何とか車から這い出す。

 麓まで歩いて降りようと彼は歩き出した。

 しかし、あたりは真っ暗で雪が広がっているだけだ。

 どこをどう進めばいいのかもわからない。


「帰るんだ、俺は妻の元に帰る……」


 彼は寒さに唇を震わせながら呟いた。

 積もる雪に足を取られながらも、必死に歩く。

 歩いて歩いて歩いて、雪をかきわけてかきわけてかきわけて。

 どこまで行っても雪雪雪。


「帰る……ん……だ……」


 どれくらい歩いただろうか。

 もうすでに彼はあまりの寒さに意識が混濁して、手も足も感覚をなくしてしまっていた。

 朦朧とした意識の中、果たして本当に歩いているのかどうかも感じられなくなっていた。

 彼は気付いていなかったが、実は彼はすでにバタリと雪に倒れ付していたのだった。


「彼女が待っている…んだ……」


 彼は目を閉じたまま呟き続けていた。


「でも…ごめん……とっても眠いんだ……ごめん…ちょっとだけ眠ってもいいかな……5分だけ…そしたらすぐ戻るから……」


 そのとき。

 目を閉じ、雪に横たわる彼の上空に変化が現れた。

 真っ暗な空が光っている。

 すると、その光から何かが下りてきた。

 それは───


 タヌキだった。


 そう。

 羽を生やしたタヌキが5匹、身体を金色に輝かせて舞い降りてくるところだった。

 タヌキなのに荘厳な感じがするのはなぜだろう。

 タヌキ天使たちは次々と男の傍に舞い降り、ちょこんとした前足で男の身体を抱えた。

 すると男の身体がふわりと持ち上がり、タヌキたちと一緒に上空へと浮かんでいった。


「ん……」


 その時、彼の目が開いた。

 傍らのタヌキと目が合う。

 タヌキは何も言わなかったが、にこりと微笑んだ。

 彼も笑った。


「おや?」


 彼は気付いた。

 自分の肩に死んだはずのハムスターのジャンが乗っかっている。

 つぶらな瞳を彼に向け、じっとしている。


「そうか……迎えにきてくれたんだな……」


 彼はそう呟くと、ジャンを手に取った。


「お前が死んで彼女は嘆いていた。俺までいなくなったら彼女は立ち直れるかな……」


───ダイジョウブダヨ


 彼はそんな声を聞いたような気がした。

 手にしたジャンに目を向けたが、ジャンは相変わらずつぶらな瞳で彼を見返しているばかりだ。


「そうだな。きっと大丈夫だよな。きっと……」


 彼は自らに言い聞かせるようにそう言った。


「これも運命。どうしても逆らえない運命は世の中には溢れている。それに立ち向かい強く生きて欲しいと思う。いつか俺のいる場所に彼女がやってきたら"頑張ったな"って言ってやろう。で、あいつが好きな歌でも歌ってやるか。まったく…毎日聞かされてて覚えてしまったぞ」


 彼は低い声で囁くように歌い始めた。


『いつまでも抱きしめて……君だけを抱きしめて…』


 彼はジャンとタヌキとともにどんどん上空の光に向かって上っていく。

 彼の表情は晴れやかだった。

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