8月14日 朝
朝食を食べ終わった食卓で、姪の瞳が海で泳ぎたいと言い出した。
「ねえ、何回言ったら分かると? 怖くないん?」
彩乃の低い声に、娘は怯む様子を全く見せない。
「怖くない。昨日だって、泳ぎよう人おったし」
「こっちは心配で言いよるんよ?」
私や彩乃が子供の頃、お盆の海は恐怖の対象だった。
「よいよい船って分かる?」
私が隣に座る慎弥に聞くと、彼は「聞いたことはある気がする」と答えた。
よいよい船に乗る人に
「亡くなった人を乗せた船なんやけど、盆になったら、仏様を下ろすために陸の近くにやって来るんよね」
胸の動きで、慎弥が深く息を吸ったのが分かる。
「お盆の間は、絶対に海に入るもんやないって。爺ちゃんとか凄い剣幕でさ。手足引っ張られて、引きずり込まれて仲間にさるうぞって」
「怖っ」
おどけた調子にも聞こえる、小さな声。
「怖いよね」
私は慎弥と繋いだ手に力を込めて、そこに視線を落とした。
「でもさ、船に乗っとうのに、足を引っ張るっていう意味が分からんくない?」
誰にともなく尋ねたのは、慎弥の右隣に座る鷹志だ。
「そりゃあ、フライングやろ?」
誰もが耳を疑う中、叔母が腕組みをしている父に聞き返す。
「どういうこと?」
「十三日の夕方に、自分を迎えに来た家族が来たら、船を降りていいとやないん?」
「
呆れて水を差す彩乃に目を移し、父は更に持論を展開した。
「まあ、聞けって」
彩乃は同意を求めるように、夫の横顔に目をやる。だが雅樹は、義父の話に気を取られて気付かなかった。
「迎えがないとに船を降りてしまったら、見間違いやったりさ。したら、そのまま十五日の夜まで、海に浸かって過ごさないけんのやないん? 船に戻れんで」
ペナルティーか。
家族が来なければ陸に上がれず、船にも帰れずに。
やけ酒用の酒は、少しは分けてもらえるのだろうか?
生者の足を引っ張るのは、寂しさからだろうか。
「それはきついですね」
雅樹の言動を裏切りとでも感じたように、彩乃が力なく首を横に振る。
「背中に乗る順番って、先に決めるんかな? それとも早い者勝ち?」
特等席はどこだろう?
「どうやろうな。上の方が景色はよかろうけど、家族に近い方が嬉しかろうね」
叔父の意見は、妻の問いへの答えにはなっていなかった。
信号機のないこの島で、タクシー運転手をしている叔父は、昨夜の帰りが九時過ぎだったため、先祖を迎えには行けなかった。
「家族の背中に乗るときって、分裂して乗るんよね? 今年はこの人の背中が良いとかじゃなくて」
鷹志に悪気がないことくらい、分かっている。
「分裂って。何か、言い方が嫌なんやけど」
そうこぼす彩乃が、私は自分の代弁者のように感じられた。
「海に帰さんかったら、ずっとおってくれるかな?」
寂しげに尋ねる彩乃の視線は、明らかに私に向いている。
「っていうか、帰りたいんかな?」
私は問い返すと、テレビ台に置いてある、母と祖父母が写る写真を振り返った。
「帰りたいって思える場所が、ちゃんとあるんかな? おらんくなったら、誰か探してくれるんかな?」
そっと父に肩を叩かれて、私は口を閉じる。
「二人とも、明日帰さんかったら、そりゃあ誘拐ばい。心配せんでも、行きも帰りも、ベテランの仏様たちがガイドになってくれとろう」
深刻な調子で語られる父の軽口に、救われる自分がいた。
「ベテランの仏様って」
「また適当なことを」
叔母と鷹志は、それぞれ文句を言いつつも、表情が和らいだものになっている。
「帰りに点呼とかするっちゃろうか? 『あらっ、一人おらん!』とか」
叔父のおどけた語り口に、瞳がけたけたと笑い出す。
「思ったんやけど、仏様ってどんな格好して来るんかね?」
鷹志が更に問いかける。
「みんな白装束なんかな?」
慎弥と目が合い、私は互いの指を絡ませるように、手の繋ぎ方を変えた。
「
願望を口にした彩乃は、そこから話を広げていく。
「どっかでファッションショーとかやらんかな? 時代ごとに特色があって、面白いと思うんやけど。三日分の着替えを用意して来るんかな?」
「案外、裸やったりして」
呟いた父に向けられる、鋭い視線の集中砲火。
「何てぇ?」
ゆっくりと発せられた叔母の一言には、怒りの他に、軽蔑も含まれているように聞こえた。
「でも裸で乗られとるって考えたら、流石に嫌じゃない?」
鷹志が背中に両手を回して尋ねると、叔父がみんなに同意を求めるように言った。
「乗る方も気ぃ遣うやろ」
どうやって乗ろうかと、あれこれ方法を探っているうちに、家路につく家族や子孫。置いて行かれても、引き止める方法はなく、仕方なく体の一部を手で掴む。
彼らに重さはないので、引きずられるようなことはないと信じたい。
「そういえば」
私は、退屈そうに見えた慎弥に話題を振った。
「大島から
これは母から聞いた話だ。
「何で? 波が高いけん?」
「この辺りの海の中には、川が流れよるらしい。それが正確にどっかは分からんのやけど」
「どんなに泳ぎが上手い人でも、遺体で上がるって」
叔母が私の話を引き取ると、驚きを顔に出した慎弥の正面で、雅樹も知らなかったのか口を開けている。
「仏様は大丈夫なんかね? 小舟やろ?」
不意をつかれた私は、瞳の質問に答えられなかった。
「迂回するんやない?」
けろりと言ってのけたのは、鷹志だ。
安全なルートを確保しようと、毎年ベテランの仏様たちが、その川沿いで赤色灯や旗なんかを振っているのだろうか。
「コンテナ船も通りようけん、大変やな」
沖では大型の貨物船やタンカーが、互いに間隔を保ちながら、島と本土との間を南北に往来しているからだ。
「それやったら、近くまで貨物船に乗って来ればいい」
叔父の自信ありげな提案に、息子は同意しなかった。
「便乗するってこと? 港で、もし乗り間違えたらどうするん?」
思いがけず日本各地、いや世界を旅することになった仏様の姿を想像する。
インドのチェンマイに南アフリカのケープタウン。船の目的地はイギリスのリバプール。いや、イタリアのジェノバかもしれない。
もしくは、パナマ運河を抜けた先にあるサンフランシスコかも。
「でも、そういう仏様もおるかもよ」
叔母が夫を擁護すると、息子の鷹志はきまり悪そうな顔をした。
片腕で祖母を背負って 更級ちか @SarashinaChika
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