代償-5

 タスクが仕事を終えて帰る時間に合わせるように、クロキは、夕食を作り始めた。

 アクアは、黙々とギターを弾いている。

 途中、風呂を入れに立ったが、それ以外は、ずっと同じ場所で同じ曲を。

「ただいま」

 夕食が出来上がる頃、タスクは帰ってきた。

 おかえりも返さずに、アクアは、ひたすら練習している。

 珍しい出来事に、タスクは、訝しげな顔でリビングに現れた。

「……おかえり」

 仕方ないとでも言うように、クロキが、ダイニングから声をかけた。

 タスクは、同じ表情のままクロキを振り返り、思い出したように笑みを浮かべた。

「あ、ただいま。アクア、どうしたんですか?いつになく、集中してますけど」

 クロキは、ソファーから覗くアクアの後ろ頭を見つめた。

「ちょっと、アクアの本気を刺激してしまって……。もう少しで、出来上がりそうなんだ。待っててもらっていいか?」

 タスクは、穏かに、その顔を笑みで崩した。

「分かりました。いいですよ」

 具体的な理由も聞かずに、タスクは承知した。

「……その人の良さは、父親譲りだな」

 タスクは、一瞬、茫然とした後で、小さく笑った。

「よく言われます」

 タスクは、コートやカバンを部屋に置いた後、ダイニングテーブルのリビングを正面に見る席についた。

 クロキは、リビングを横見る場所に、アクアの方へ体を向けて座った。

 アクアは、よく間違う箇所を、何度か繰り返した後で、ピタリと弾くのを止めた。

「おじいちゃんみたいにカッコよくできないけど、聴いててね?」

 アクアが、弦を弾く。

 流れるメロディーは、もう、耳について離れないほど聴いた曲。

 しかし、決して、飽きることのない曲。

 確かに、彼の祖父・ゼンが弾くのとは全く違い、拙くて響きもまだまだ。

 しかし、それは、経験と技術力の差。

 クロキの耳に届く音色は、あの頃のものだった。チョコレート色をした、コーヒー店のカウンターから鳴っていた音色。クロキの語った、人間の欲深さと醜さを、おもしろいと笑い飛ばした、ゼンの音色。

 人を惹きつける、不思議な音色。

 やがて、曲は、静かに終わった。

 アクアは、ギターを手にしたまま、すぐにクロキを振り返った。

 黙って、ジッと、クロキを見つめて言葉を待っている。

 クロキは、テーブルに向き直り、僅かに瞼を伏せた。

「やっぱり、お前はゼンとよく似てる……。あとは、コーヒーの克服だな」

 クロキの言った言葉を理解するのに、アクアは、少しの時間が必要だった。

 しかし、茫然とした表情が笑みに変わるのには、それほど時間は必要なかった。

「おなか空いた!」

 夕食は、アクアが曲を弾けるようになる時間を考慮して作られたかのように、どれもが程よく冷めていて、どれもが、とても美味しかった。

 ただ、並ぶ料理のどれもに、必ず、アクアの苦手な食材が含まれていた。

 食事の後、タスクが珍しくコーヒーを淹れた。アクアの苦手なコーヒーを。

 リビングにいたアクアは、漂ってきた香りに、顔を顰めた。

 同じくリビングにいたクロキは、いつもの無表情で、コーヒーを運んで来たタスクを見上げた。

「コーヒーもあったのか……」

 意外だという呟きに、タスクが笑う。

「アクアが飲まないから、あんまり淹れないんですけどね。一応、父から教わってますし、働いている店がら、淹れることもあるんで」

 アクアは、まだ、膨れっ面をしている。

「せっかく一曲マスターできたのに、苦手なもの入れなくてもいいじゃん。もう、二人ともイジワル」

「おじいちゃんと同じ店をやりたいんだろ?苦くないから、飲んでみろ」

 アクアの目の前に置かれたのは、あと二つのカップの中身とは違う、ミルクたっぷりの色をしていた。

「まずは、そこからか……」

 クロキが、自分の前に置かれたカップを手に取った。

 アクアは、ミルクたっぷりのキャラメル色の液体をジッと睨みつけた後、まず、匂いを嗅いでから、そっと口に運んだ。

「苦くないだろ?」

 タスクが問うと、アクアは、不思議そうにカップの中身を見つめた。

「……苦くない」

「苦手だって、ずーっと飲んでなかったもんな?アクアは。だいぶ甘めに入れたけど、これなら飲めるだろ?」

「うんっ」

 アクアは、美味しそうに、カップに口をつけた。

「少しずつ、色々飲めるようになればいいさ。お菓子だって、少しずつ覚えたんだから」

「うんっ」

 ミルクたっぷりのコーヒーを少しずつ口にしながら、アクアは、テーブルの中央に置かれた本を見つめた。クロキに、アクアに必要な本だと言われて、図書館から借りたコーヒーの専門書を。

 クロキが生きる理由としていた、祖父と、祖父の店。

「はぁ……」

 隣りから小さく聞こえた、疲労を感じさせるため息に、アクアはクロキを振り返り、表情を曇らせた。

「クロ……?」

 心配だと、声色が語る。

 クロキは、もうひと口、コーヒーを口にしてからカップを置いた。

「約束だったな……」

 アクアは、心配そうな顔で息を呑み、タスクは、何事かとクロキを見つめた。

「望みを叶えなくても、生きていられる方法が、一つある」

 アクアの顔つきが変わる。ジッと真剣に、クロキを見つめていた。

「俺の持つこの力を、誰かに継がせる。そうすれば」

「クロは、生きていられるの?」

「あぁ。ただし、二十八日間だけな」

「二十八日?たった、それだけ……」

 元気なく、アクアは呟いた。素直に喜べない方法だった。

「俺がどれだけ生きてきたと思ってる?」

 自分にこの力を与えた、かの術師の言葉が、今のクロキには、少し理解ができる。


―― もう、終わりにしたい ――


 アクアには、やはり、理解しがたいようだった。

「だけど……」

「力を与え、月が一回り。再び同じ顔を見せたとき、俺の命は終わる。報い、だろうな。人の命を頂いて生きてきた、そして、人の望みを叶え続けてきた……」

「月が、一回り。だから、二十八日?」

「あぁ」

 クロキは、まるで、他人事のように語った。

 クロキを哀しげに見つめたまま、アクアは、小さく呟く。

「……力を、継ぐ」

            

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