代償-2
クロキは、図書館にいた。
アクアが、朝食を済ませると同時に出かけてしまったため、ギターを教える必要もなくなったし、この町に来て四日目。ろくに外に出ていないことに気がついた。
特に観光場所もないらしいことは、初日でわかっている。唯一、時間が潰せそうなのは、ここしかなかった。
何を探すでもなく、館内を歩く。
今日は、休日。訪れる人は多い。
ここがどこであるかは関係なく、騒ぎまわる子ども。
声を抑えて、必死に怒っている親。
静かにおしゃべりを続ける女の子たち。
黙々と自習する学生たち。
人と本とを眺めながら、棚の間を歩いていたクロキは、ふと、足を止めた。
視界の端に止まった、本の背表紙。
「コーヒー」
タイトルの一部を呟いて、手に取る。
窓際の空いている席を選び、クロキは、ページを捲った。
その本には、豆の選び方から、淹れ方、カップの選び方など、普段使える方法から、店を持つための知識まで、専門的なことが詳しく分かりやすく書かれていた。
すぐに、ゼンの姿が浮んだ。
コーヒー専門店の片隅で、ギターを弾く姿。
それから、カウンターの向こう側で店主らしく振舞う姿。
頼みもしないのに、コーヒーについて色々と話してくれた。
何年前のことになるのか、はっきりと覚えていない。
それでも、記憶は鮮やかに刻まれていた。
初対面なのに、この町では滅多にないだろう旅人の訪問なのに、何も言っていないのに――――。
―― 泊まるとこないだろ?ウチに泊まってけよ ――
望みを叶える力があると、話す前だった。
店は、まだ、できたてで、客はほとんど来てなかった。
力の事を知っても、ゼンは、興味を示しはしたものの、何も望むことはなかった。
店は暇で、生活は苦しかったが、何も、望みはしなかった。
ゼンは、よく、店の扉を開けて、通りへ向けてギターを弾いていた。
まるで、魔法のようだった。
音色に惹かれるように、客が来る。
歌いはしない。
曲として、完全に出来上がっていないことの方が多かった。
趣味で弾いているにすぎないのに、店に人が来る。
実は、魔術師だろう、と訊くと、ゼンに大笑いされた。
本当に、魔術のようだった。
弾き方を教わって、クロキがあの曲を覚える頃には、店は軌道に乗っていた。
懐かしい。
もう、文字は追っていない。
開いたページのその向こうへ、クロキの意識は向いていた。
「クロ!」
突然かけられた声に我に返り、そちらへ顔を向けると、アクアが立っていた。
「お昼だよ?帰ろ?」
クロキは、もう読んでいなかった本を閉じた。
「それ、途中なの?借りてく?」
「あぁ。俺より、お前に必要な本だけどな」
差し出された本のタイトルを見て、アクアは顔を顰めた。
「コーヒー、苦手~」
「同じ店を出すんだろ?」
渋々手に取って、アクアは、貸し出しカウンターへ向かった。
クロキも、その後に従った。
クロキが少しだけ読んでいた本は、帰り道、アクアの手の中だった。
「昼メシは、何がいい?」
クロキが静かに訊いた。
あとどれくらい、生きる時間が残されているのか、体力は、少しずつ落ちている。大人しく、家でギターでも弾いているんだったと、クロキは、今更に考えていた。
半歩前を行く、アクアの足取りは軽い。
「お昼は、もう用意してあるんだよ」
振り返ることなく、アクアは答えた。
「アクアが作ったのか?」
十一歳とはいえ、タスクに仕込まれたのか、アクアは、しっかり食事を作ることができる。タスクは、仕事でいないから、自分で作ったのかもしれない。
もしくは、タスクが作り置きしていったか。
アクアは、悪戯に笑うだけで答えはしなかった。
紺色の玄関扉を開けた時、アクアは、弾んだように、中へ声をかけた。
「ただいまぁ~」
誰もいないはずの、家の中へ。
しかし―――。
「おかえり~」
リビングから、声が返ってきた。荒く、低い、しかし、軽い感じのする声が。
おまけに、鼻をくすぐる香ばしい匂い付き。
キッチンに立つ男に見当がついて、クロキは、ため息をついた。
「早く、早く!」
アクアが、クロキの腕を引っ張り、リビングへと急かす。
仕方なしに、クロキは、アクアについてリビングへ向かった。
リビングから見える、キッチンとダイニングには、思ったとおりの人物がいた。アクアの祖父、クロキの思い出の人と同じ名前をもつ男・ゼン。クロキの思い出の曲を口ずさみながら、なんとも楽しげに、テーブルセッティングをしていく。
「お前、何してる……?」
呆れ果てて、それしか言えなかった。
「ん~?何って、料理。昼メシ作る奴がいないって言うからさ」
「早く座ろう?」
アクアは、ご機嫌だった。
「……一体、何をしに来てるんだ、お前は……」
命を取るか、捕えるか、という相手と、仲良く食事をしている場合じゃない。
「言ったろ?俺は、お前の最期を見届けるんだって。俺のいないうちに、永久の眠りにつかれても困るし?まぁ、いいじゃないの。ここは、ウチの領土じゃない、近くて遠い隣の国なわけだし?たまには、こういうのも」
軽快なおしゃべりの間に、準備はすっかり整っていた。
キッチンを背にする席にゼンが座り、正面にクロキ、二人を見る席にアクアが座った。
食事は、案外、おいしかった。
アクアが誉めると、ゼンは、独り身だから必然的に上手くなったと、苦笑いを浮かべていた。
「護衛のつもりか?」
食事の後、キッチンに、ゼンとクロキは二人並んで後片付けをしていた。
アクアは、リビングで、あの曲を練習している。
クロキの問いに、ゼンは、口元にだけ笑みを浮かべた。
「まぁ、そんなとこ。他のとこの手に落ちるとか、他の奴にやられるとか?俺のメンツに関わるもんで」
「大変だな、雇われの身も」
「長居する気か?」
「長居するも何も、俺の時間は、もう残り少ない」
「アクアは、そのことは?」
「知る必要があるのか?」
「ギターの師匠としては、言っておくべきだと思うけど?」
クロキは、面倒くさいというようにため息をついてから、アクアを振り返った。黙々と、真面目な顔をして、あの曲を練習する幼い少年を。
丁度、あのくらいの年だっただろうか――――クロキは、遥か昔を思い出していた。
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