4:ギター

 アクアが目を覚ますと、部屋の中は、カーテンを閉めているにもかかわらず、やけに明るかった。

 ベッドの上で、固まった体を伸ばしてから、窓へ歩み寄る。

 勢いよく二重のカーテンを開けると、見事な快晴。

 積もった雪が光を反射していて、アクアは、目を細めた。

 身体中のあちこちが、弾んでいる気がした。

 リビングに顔を出すと、今日は、タスクが朝食を作っていた。ホットケーキの甘い香りが充満していて、やはり、心は弾んだ。

 しかし、リビングを横に見る席にいるクロキは、何だか元気がなかった。ジャックの帰り道で拾った一昨日のように、顔色が悪い。なんだか、ぼんやりとしている。

 気になって仕方なかったが、今日はまだ、学校へ行かなければならない。

 タスクも仕事なのに、と、クロキが心配でならない

 アクアは、学校へ行ってからも、上手く気持ちを切り替えることができず、教師に注意されてばかりだった。

 クロキは、いつまでこの町にいてくれるのだろう――――アクアは、その心配もしながら、最後の授業のチャイムが鳴ると同時に、教室から飛び出した。

 真っ直ぐに帰りたい気持ちを抑えて、町の図書館へ走る。今日が返却期限になっている本があったし、借りたい本もあった。

 学校から、アクアの家とは反対の方向へ、徒歩五分の場所にある、比較的新しい平屋建ての広い建物。

 カウンターで本を返して、目的の本を探しに、整然と並んだ棚を見て歩く。

 館内は、学生が多かった。同じ制服の学生もいる。

「アクア」

 ボリュームを控えめにかけられた声には、たっぷりとからかいが含まれていた。

 声のした方を振り返れば、同い年の知った顔が四人、アクアのほうへ歩み寄ってくるところだった。

「お料理の本なら、向こうだぞ?アクアちゃ~ん?」

「今日は、何作るのかなぁ?」

「菓子の本ばっか、女みてぇ~」

「女じゃん、女~」

 からかう同級生に聴こえないようにため息を吐いて、アクアは、無反応を決め込んで本を探した。

 相手にして言い返せば、向こうも面白がるだけだ。

「おい、あんまり言うと、こいつ、キレて刺してくるからやめようぜ~」

 両親の事件をネタにされ、さすがに頭にきたアクアが、相手を振り返ると、同級生たちは、一人の男にまとめて捕まったところだった。

 茫然と、その光景を見つめる。

「料理とか甘いものとか、女しか作っちゃいけないって、誰が決めたんだよ?そういうところで働いてんのは、男のほうが多いんだぞ?」

 荒く、渋い低音なのに、軽さを感じる声だった。

「冗談言ってるだけじゃん。離せよ、ウゼぇなぁ」

「人は遊び道具じゃねぇ。一緒に遊びを楽しむ相手だ。足りねぇ頭に叩き込んどけ、クソガキども」

 迫力のある男の声音に、同級生たちは身を硬くした。

「わかったのか?」

 それぞれに頷く彼らを見て、男は、ようやく腕を離した。

 自由になり、図書館の外へ駆けて行く同級生たちを、アクアも男も目で追った。

「何で、言われるがままだったんだ?」

 言われて、アクアは、改めて男を見上げた。

 光を受けると透き通るのではないかというくらいの薄い色の茶髪は、肩辺りまで、無造作に伸びているようで、しっかり整っているように見えた。瞳の色は栗色。背は、さほど高くはないが、引き締まったスラリとした細身の体が、男を長身に見せていた。

 口元は、緩く閉じられていているだけなのに、微笑をたたえているように見える。

 親しみやすい雰囲気の男だった。

「言い返すと、あいつら、面白がって調子に乗るし」

「なるほど」

 男は小さく笑った。

「でも、助けてくれてありがとう。えっと……お兄さん」

 アクアの最後の言葉に、男は、のどの奥で笑った。

「今、おじさんって言うかどうかで悩んだな?まぁ、いいけど、どっちでも。何の本を探してるんだ?」

「ん?ギターの教則本。どれがいいのかわかんなくて」

 二人は揃って、本の並ぶ棚を見つめた。

「初心者?」

「うん。楽器が初めてでも、わかりやすいやつがいい」

「そうだなぁ……」

「お兄さん、ギター弾けるの?」

 本を選ぶ男を、アクアは見上げた。

「まぁ、少しだけな。これは?これなら、わかりやすいし、ページも見やすいと思う」

 男が、アクアに本を差し出す。

「じゃあ、これにする。ありがと」

「礼はいいよ。代わりにさ、この辺で、おいしいケーキ食べれるところない?」

「お兄さんも、旅してる人?」

 男は、一瞬表情を止めた後、意味深に口の端を上げた。

「まぁね。今日、この町に来たからさ」

「じゃあ、ここを出て、えっと、右に行った方の商店街にある、セプトって店がいいよ。おいしいし、種類も多いし」

「へぇ~。わかった、行ってみるよ。ありがとな」

 男は、アクアの頭をポンポンと撫でて去っていった。

 小さく鼻歌を歌いながら。

「あれ?」

 男が残したメロディーに、アクアは、入口へ向かう男を振り返った。

「えっと?」

 眉を寄せて考える。

「あ、そっか!おじいちゃんのだ」

 クロキが弾いてくれた、彼の思い出の曲。

「あれぇ?」

 思い出して、また、眉を寄せた。

 祖父が作ったはずの曲を、旅人の彼が、何故知っているのか。彼もまた、クロキやタスクと、見た目では年も変わらないように見えたのに。

「あっ、そうだった!」

 朝、クロキの様子がおかしかった事を思い出し、アクアは、慌てて貸し出しカウンターへ向かった。

 同級生がからかってきたのと、助けてくれた男のことで、すっかり忘れていた。

 本を抱えて、家路を急ぐ。

 玄関の前で、両膝に手をついて息を整えてから、扉を開けた。

「ただいまぁ」

 声をかけるが、昨日と同様、返事はない。

 足早にリビングへ向かうと、暖かな部屋のソファーで、クロキが横になっていた。

 血の気が引いた。

 眠っているのだと言い聞かせて、そっと歩み寄る。

「クロ……?」

 元々白いクロキの肌が、更に白く見えた。不健康に、青白く。

「クロ?」

 傍に座って、声を大きくして呼ぶと、気だるそうにゆっくりと瞼が持ち上がった。

 言葉は発しない。

「何か食べた?……平気?」

「あぁ……」

 力なく、それだけが返ってきた。

 アクアは、クロキを心配そうに見たあと、床に放り投げていたカバンと、借りたばかりの本を見つめた。

「……クロ」

 呼びかけたアクアの声には、強い決意がこもっていた。

 クロキは、瞳だけを動かして、アクアを見る。

「俺が、今すぐギター弾けるようにして!」

「何だ?その、覚える気ゼロの発言は……」

「だって!望み叶えてなくて、そんなに弱ってるんでしょ?だから!」

「その分……お前、生きる時間が短くなるんだぞ?」

「まだ若いから、大丈夫だもん」

 根拠のない自信。

 しかし、アクアの瞳は、真剣そのもの。

 何がどう大丈夫なんだ、と、今のクロキに言い返す力はない。強い決意は、クロキの力を通して、はっきりと見えていた。

「曲は、自分で覚えるから、今すぐに弾けるようにして!」

「いいのか……?」

「言ったでしょ。目の前で、死なないで欲しいんだってば……」

「……わかった。叶えてやろう。そのまま、動くな」

 クロキは、アクアの鎖骨の少し下辺りを指差し、宙に何かを描いた。

「望みと引き換えに、時を頂く……」

 クロキが言葉を発した瞬間、彼の指の先、アクアとの間に、掌に収まるほど小さな円形の模様が、赤く浮かび上がった。

 クロキは、手を開き、白い掌をアクアへと近づける。

 模様は、手の動きに合わせてアクアへ近づき、音もなく、跡もなく、制服の奥へと沈んで行った。

 クロキの手は、服に軽く触れる形で止まっている。

「……終わり?」

 アクアが、恐る恐る尋ねた。

「まだだ……」

 クロキは、アクアの体に伸ばしていた手を、グッと彼の体に押し付けた。赤い模様が吸い込まれていった場所へと。

 アクアの体が、一度、大きくドクンと脈打った。

 数秒後、クロキがゆっくりと手を戻す。

 青白かったクロキの肌は、元の透き通るような美しい白へ戻っていた。

 体を起こし、足を向けていたほうの肘掛に立てかけていたギターを、クロキは顎で示した。

「もう、弾ける?」

 疑り深く、アクアは、座ったままクロキを見上げた。

 両手で体を支えるクロキは、表情なくアクアを振り向いた。

「弾いてみろ」

 言われるまま、アクアは、クロキの足の先にあるギターを取った。

 昨日は、コードを教えてもらっただけで終わったギター。

 ローテーブルに広げられたままの楽譜を見て、一小節分だけ鳴らしてみる。

 自分の手から流れたメロディーに、アクアは、目を丸くした。

「楽譜は、読めそうか?」

「……分かるみたい」

「アクア、とりあえず、荷物を片してこい。曲が弾けるように、見ててやる」

「うん!」

 嬉しげな声を残して、アクアは、ギターの代わりにカバンとコートとマフラーを手に、自室へと駆けて行った。

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