黒−2
リビングの隅で、薪ストーブの火がはぜた。
アクアは、風呂から上がり、薪ストーブの傍で本を読んでいた。
アクアから「クロキ」の名前をもらった男は、彼と代わるように、今、風呂に入っている。
タスクは、二階で、クロキの部屋を用意していた。
「アクア~」
二階から呼ばれてアクアが階段を駆け上がると、廊下に、荷物が置かれていた。段ボール箱が二つと、平たいケースが一つ。
「これ運ぶの?」
「一階の書斎に、とりあえず置いておいてくれるか?」
「こっちのは何?」
アクアはケースを指差した。
「俺の父さん、アクアのおじいちゃんが使ってたギター。店の隅で弾いてたの、覚えてないか?」
「ちょっと覚えてる~。下で開けてみてもいい?」
「こっちの箱を片付けた後ならな」
言われた通りに、段ボール箱二つを玄関横の書斎に片付けてから、アクアは、ギターケースを抱えて、リビングに戻った。
リビングでは、風呂から上がったクロキが、ソファーでアクアが残していた本をパラパラと眺めていた。
アクアが、ギターを抱えて入ってくると、チラリとそちらへ顔を向けた。
「それは?」
「おじいちゃんのギター。今、クロの部屋作ってて、そこに置いてたギターみたい」
話しながら、抱えたギターごと、薪ストーブの傍に寄る。
ゆっくりとラグマットの上に置いて、ケースをあちこち見た後で、止め具をパチンと外した。
埃を被ったケースが、ゆっくりと開けられる。
「それ……」
クロキが、呟いた。
ソファーから、薪ストーブの傍に来て、アクアの正面に座り、ジッと琥珀色のギターを見つめた。
ケースに守られていたギターが、部屋と薪ストーブの明かりを受けて輝きを放っていた。
「おじいちゃん、この近くでカフェしてたんだよ。けっこうお客さんも来ててね。お店が忙しくない時、お店の隅で、これ弾いてたんだ。カッコ良かったんだよ?これ弾いてるおじいちゃん」
「それ……今、食料品店になってる、あの場所にあった店か?」
ギターを見つめたまま、クロキは聞いた。
アクアは、驚いて目を丸くしてクロキを見つめた。
「……うん。今、ジャックって名前で、夕方、クロもいた店。外側は変わってなくて、昔のまま」
呆然と返せば、クロキは、そっとギターを手にとり、胡座に座り直した膝の上に置いた。
「店主は?」
「おじいちゃん?えっと、俺が五歳くらいかな?年だからって、店を閉めちゃって、人に譲って」
「生きてる?」
「……二年前に」
「生きてなかったか……」
呟いて、クロキは弦を弾いた。
ポロポロと鳴らして、すっかり狂ってしまっていた音を調節する。
「おじいちゃんを知ってるの?」
「少し……」
クロキは、静かに、ゆっくりと弾き始めた。
「だた一人、俺に何も願わなかった……」
聞いたことのあるようなメロディーの中で、クロキが呟く。
わけがわからなくて、アクアは、首を傾げた。
「何?」
「ただ一人、俺の願いを叶えた男だ」
「クロの願い?何?」
「この曲が、弾きたかった……」
クロキの瞳が、懐かしさに、僅かに細められた。
心地よい弦の音。
そこへ、控えめな足音が混じった。
アクアが、笑顔で振り返る。
二階から降りてきたタスクが、懐かしさに微笑んでいた。
「誰が弾いてるのかと思った……」
クロキの手が止まる。
「続けてください」
タスクが、アクアの隣に腰を下ろした。
「久しぶりに聞いたから。もう少し、聴いていたいんです」
タスクのリクエストに応えて、クロキは、曲の頭から弾き始めた。
「俺が小さい頃……アクアくらいまでは、よく店に遊びに行っていて、父がギターを弾く姿を見てました。この曲は俺も大好きで、教えてくれって頼んでたんです。結局、教えてもらう前に、ギターより夢中になるものを見つけちゃって、それっきりなんですけど……」
「タイトルは?」
弾きながら、ギターに視線をやったまま、クロキは静かに聞いた。
「え?」
「この曲に、あの男はなんてタイトルをつけた?」
「タイトルって、え?これ、父さんが作った曲なんですか……?」
訊き返すタスクに、クロキは、小さく息を吐いた。
「結局、決めなかったのか」
「父を知ってるんですか?」
タスクに答えたのは、アクアだった。
「これ、おじいちゃんが教えてくれたんだって」
それを聞いて、タスクの頭は、一瞬、疑問符で埋まった。
教わったということは、何度か会っているか、長期滞在をしていることになる。それなら、自分も会っている可能性がある。
クロキの見た目からすると、おそらくは、同い年の筈だから。
「(覚えがない。忘れてる?でも、訊けないし……)」
相変わらず、クロキはギターに目を落としている。
「教えてもらったのは、昔だ。この曲ができたころだからな。間違って覚えてるところがあるかもしれない」
クロキの言葉に、タスクの頭は、再び混乱していた。
父親は、生前、カフェを営んでいた。今は、ジャックという店になったあの場所で、あの外観のままで。
そこでよくギターを弾いていて、今クロキが弾いている曲も弾いていた。
カフェを作った頃にできた曲だと言っていた。
「(店開いたのは、俺が生まれる、十年か八年くらい前……ってことは、あれ?え?)」
その計算で行くと、クロキは、タスクよりずいぶん年上ということになる。
「俺の年なら、考えるだけ無駄だ」
図星を付かれて、タスクは、返す言葉もなかった。
「クロ、何才?」
アクアが、無邪気に聞いた。
「途中からカウントしてないから、わからない」
「誕生日は?」
「昔だ。それしか覚えてない」
タスクもアクアも、訳がわからなかった。自分の生まれた日を覚えてないなんて、あるのだろうか。自分の年が、分からないなんて。
それでも、このギターとギターの持ち主と、奏でていた曲は、鮮明に覚えてくれているらしい。
タスクもアクアも、それだけでいい気がした。
「良かったら、そのギターどうぞ」
タスクの申し出に、クロキは、手を止めて彼を見た。
「……思い出だろう?」
「持っていても、弾けませんから」
「ありがとう……」
クロキの言葉に、温かな色が溢れた瞬間だった。
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