2:黒

 雪は、ようやく降るのをやめ、空を隠していた重々しい雲も風に流されていく。

 途切れ途切れに見える空に、オレンジの光が差していた。

 雪が降り積もった町を行く人の数は、普段の半分以下。元々、それほど人口の多くない町だから、ポツリポツリとしかいない。

 買い物袋を抱えたアクアは、ご機嫌だった。

「タスク、あと何?」

 アクアの好きな、白い手袋とチョコレート色のコート。

「あとは~……あ、パンとヨーグルトと牛乳」

「朝メシ?ジャック?ジャックに行く?」

 ジャックは、商店街を抜けてすぐ、家から、歩いて五分の場所にある食品店。主な売り物は手作りパンで、店の扉を開けると、芳ばしく仄かに甘い香りが、鼻と食欲を刺激する。

「そう、ジャックに行って終わり」

 二人とも、耳も頬も寒さで真っ赤になっていた。

 雪道を家へと歩けば、アクアが着るコートと同じ、チョコレート色をした店「ジャック」が見えてくる。

 店先で、靴についた雪を払い、扉を引く。

 扉についていた大きな鈴が、カランと音を立てた。

 店内は、外観とは反対にとても明るい。

「こんにちはぁ~」

 元気よくアクアが声を投げると、店主が、レジの向こうで、笑顔を浮かべて「いらっしゃい」を返してくれた。

 アクアに続くように、タスクも店に入る。

「こんにちは」

 声をかけて、店の奥で立ち止まるアクアに気付いた。

「アクア?何見てんの?」

 視線を追うが、そこには、他の客がいるばかり。

 タスクは、小首を傾げたあと、冷蔵ケースに向かった。

「アクア、パン選べよ?」

「うん……」

 空返事をして、アクアは、むりやり視線を引き剥がした。

 パンのトレーとトングを手に、棚を見ながら、アクアの意識は店内にいる他の客へ向いていた。

「(あの人、見たことある!絶対ある!)」

 目の前のパンを睨みつけて、真剣な顔で唸り始めるアクア。

「アクア?」

 訝しげに、タスクが声をかけた。

 我に返り、アクアは、タスクを振り返った。

「何、パンを睨みつけてんの?」

「だってっ……」

 言いかけて、アクアは、力なく口を閉じた。

 見たことがあるはずの客が、何も買わずに店を出ようとしていた。

 黒い髪と黒い上着、背は、それほど高くない。

「……あ」

 思い出した―――アクアは、小さく声を上げて、店を出る男を見送った。

「何?」

 アクアの視線を追って、タスクも、店を出る黒い上着の男を見やる。

「あの人、どうかした?」

「俺が帰ってきたときに、玄関にいた人」

「今の人?」

「うん、絶対にそう!」

「見たことないなぁ。でも、雨宿りしてただけだろ?」

「……うん」

 男の纏う冷たい雰囲気と、全く記憶に残らなかったことが気にかかる。

 アクアは、晴れない心のまま、パンを幾つかトレーに乗せた。

 店主と言葉を交わす、その間も、男の姿は、アクアの脳裏を離れなかった。学校から帰ったあの時は、あんなにきれいに忘れていたのに。

 支払いを済ませ、店の扉を開けると、鈴がカランと軽い音をさせた。

 暖かな店内を出ると、余計に寒さを感じる。

 西から、雲の隙間を縫って町へ差すオレンジ色は、ほんの僅かな量しか残っていない。空の半分以上が、暗い紺色。

「雪だるま、作れない……」

「明日作れるよ」

 タスクの言葉に、アクアは、頬を膨らませた。

「タスク、明日仕事じゃん。一人で作っても、面白くないし」

「カナちゃんは?」

「ん~?習い事じゃなかったら遊べる~。明日聞いてみよ」

 アクアに笑顔が戻った。

 タスクが、ほっとして、笑みを浮かべた――――直後だった。

「アクア」

 ぼんやりと、そして訝しげに名前を呼ぶ。

「……あ」

 アクアも、気付いて声を上げた。

「アクアが見てたの、あの人だよな?」

「うん」

「さっきまで、ジャックにいたよな?」

「うん。普通に店の中見てたよ」

 二人は足を止め、数メートル先の街灯の下を見ていた。

「えっと、あれは、倒れてる……?」

 タスクの言葉は、疑問符で終わった。

「たぶん……そう見える……」

「だよな?」

 二人の視線の先に、男が一人。

 黒い髪に黒い服、雪のように白い肌が覗く。

 アクアが玄関先で見かけ、先ほど、ジャックでも見かけた男。今、街灯の柱に寄り掛かるようにして、地面に足を投げ出して座り込んでいた。

 積もった雪のせいで、いつもより少しだけ白く明るい通りに、黒い姿はよく映えた。

 二人は、そっと男に近づいた。

 恐る恐る、顔色を窺う。

「あの……」

 タスクが、覗き込んで声をかけてみる。

 俯いていた男は、瞳だけタスクへと向けた。

 艶やかな黒い瞳は、弱々しい姿とは対照的に、力強くタスクを捕えている。

 しかし、すぐに、すーっと瞼の奥へ消えた。

「えっ?あ、あの……?」

 困惑するタスクの横で、アクアは、興味深げに男の顔を覗き込んでいた。

「この人、この辺の人?」

 覗き込んだまま、アクアが訊いた。

「俺は、見たことないと思う」

 タスクは、男の首筋に触れ、脈を診た。

「どうするの?タスク」

「弱々しい感じだけど、息はあるし、お医者さんに診てもらわないと。連れて帰ろう。このままにしておくわけにいかないし」

「運べる?」

「あぁ。俺より小柄だし、大丈夫だろ」

 アクアも手伝って、タスクの背に、目を閉じたままの男を背負わせた。

 アクアは、両手いっぱいに買い物袋を抱えた。

 雪の積もった歩き辛い道を、二人、大きな荷物を抱えて帰る。

 幸いなことに、家までは、徒歩五分。

 しかし、タスクより小柄な男は、気を失って力が抜けているせいか、ずいぶん重く感じた。一歩ずつ、踏みしめて歩くせいで、家までの五分がやけに遠い。

「アクア、俺のコートのポケットから鍵出して開けて」

 アクアは、両手いっぱいの買い物袋を、一度地面に置き、言われた通りに玄関を開けた。

「俺の部屋のが近いから、俺のベッド使っていいよ」

 アクアが、自分の部屋へと駆けていく。

 とりあえず、と、タスクもアクアの後について、彼の部屋へ向かった。

 タスクが男をベッドに寝かせている間に、アクアは、買い物袋をキッチンへ運び、近所の診療所へ、連絡をしていた。

 アクアが部屋に戻ると、タスクが、ベッドを背に床へ腰を下ろし、ぼんやりと宙を見つめていた。

「先生、すぐ来てくれるって」

 アクアは、チョコレート色のコートを脱いで、洋服掛けに引っ掛けた。

「その人、どんな感じ?」

 ベッドに歩み寄ると、タスクは、ようやくアクアと視線を合わせた。

 床へ放り投げていた手袋を取り、タスクは、男を振り返って立ち上がった。

「白い顔~。ねぇ、タスク、目は見た?この人の目」

「あぁ、暗くてちゃんと見えなかったけど……黒、かな?」

 アクアは、タスクと代わるようにベッドの脇に座り込むと、眠る男の姿をジッと観察し始めた。

 タスクがリビングへ向かう足音が後ろに聞こえて、暫くすると、ゆっくり暖かくなってくる。

 リビングの小さな薪ストーブに火が入ったようだ。

 リビングの向こうから、ガサガサと音がする。すぐに、蛇口をひねる音がした。

 夕食を作る音が、耳に心地いい。

 暖かさと疲れで、アクアの頭はぼんやりとしていた。

「アクア、アクア……」

 名前を呼ばれて、アクアは、ハッとベッドに伏せていた顔を上げた。

 どれだけ時間が経ったのか、ベッドの傍らに、タスクと診療所の先生が立っていた。

 アクアは、慌てて場所をあけた。

 アクアもよく知る医師が、男を診察する。

 医師は、あれこれ見た後で、タスクに、男の体に異常はなく、体力が消耗したのだろうと告げていた。何か消化が良く、暖かいものを食べさせてあげたらいいということだった。

 タスクが、医師を玄関まで送っていき、アクアは、もう一度、ベッドの脇で床に座って男の様子を観察した。

 部屋はすっかり暖まっていて、心なしか、男の顔に血色が戻ったような気がした。

 男に目覚める気配はなく、静かに眠り続けるだけ。

 暫くすると、キッチンから、おいしい匂いがしてきた。

「様子はどう?」

 タスクが、リビングと部屋の境から声を掛けた。

「起きない。ごはんできたの?」

「できたよ。先に食べよう」

 リビングとキッチンとを仕切るように置かれたダイニングテーブル。

 暖かい湯気とお腹に響く匂い。

 アクアが、自室を背にする形で座り、タスクは、アクアの正面に座った。

 空けたままのアクアの部屋まで聞こえる、食事の音とおいしい香りと、アクアの喋り声、それから、暖かな空気は、男の意識を浮上させるのに充分だった。

 おしゃべりに夢中のアクアも、彼の話に耳を傾けるタスクも、眠っていた時と同じに静かに動いた男に気付いていなかった。リビングに入ってくるまで、全く。

「……アクア……」

 タスクは、食事の手を止めて、僅かに目を見開いた。

 アクアは、ジャックで買ったパンを頬張ったまま、何事かと、タスクの視線の先を振り返った。

「あっ……」

 モグモグさせたまま、アクアは、くぐもった声を上げた。無理矢理飲み込んで、イスを降りる。

「目が覚めてよかったぁ。倒れてたの、勝手に連れてきちゃったけど、よかった?お医者さんがね、目が覚めたら、あったかいものを食べさせなさいって」

 駆け寄ってきたアクアを、男は、静かに見下ろした。

「俺が帰ってきたとき、玄関のとこにいたよね?」

 続けて尋ねると、男は、少しの間の後、不機嫌に目を細めた。

「何が言いたい?」

 耳に心地よい、アルトの声。

 今は、限りなく不機嫌に響いた。

 ポカンと見上げた後、アクアは、少し考えて、一つずつ聞きなおす。

「俺が帰ってきたとき、玄関のとこにいたよね?」

「あぁ、あんまりひどく降ってたから」

「ジャックを出たあと、倒れてたよ?」

「みたいだな」

「勝手に連れて来たけど、迷惑じゃない?」

「………感謝してる……」

 たっぷりと取られた間が、あまり感謝してない事を正直に伝えていた。

 かまうことなく、アクアは続けた。

「お医者さんが、別に病気じゃないって。目が覚めたら、あったかいものを食べさせてあげなさいって。一緒に食べよ?」

「しようと思えば、まともに会話できるじゃないか」

 ダイニングで二人の様子を見ていたタスクは、思わず苦笑いを浮かべた。

 話せば話すだけ、二人の温度差は広がっているように思えた。

 やはり、アクアはお構いなしだ。テーブルに駆け寄り、アクアは、自分の隣のイスを引いて笑顔で振り返った。

「どうぞ」

 男は仕方ないというふうに息を吐いてから、アクアが用意してくれた席についた。

 タスクは、思い出したように席を立ち、男の分の食事を用意した。

「……どうぞ」

 控えめに、男の前に置く。

「……すいません」

 形式だけの言葉が交わされる。

 タスクが席に戻るのを待って、男は、テーブルの真ん中に置かれたパンに手を伸ばした。

 アクアはすでに、食事を再開している。

 タスクは、思案してから口を開いた。

「あの、お名前は?」

 男は食事の手を止め、タスクを見た後、小首を傾げて考えるように視線を横へと逸らした。

「俺はアクア」

 沈黙を破って、アクアが名乗った。

「そっちは、俺の叔父さんで、タスク」

 男は、手元に視線を戻した。

「……忘れた」

「え?名前を?」

 アクアは、目を丸くして男を見つめた。

「記憶喪失?」

「……違う。ありすぎて、覚えてない」

 タスクもアクアも、頭の上に、大きな疑問符が浮んだ。

 また、暫く沈黙が続いた。

 それを破ったのは、やはりアクアだった。

「ありすぎてって、何が?名前が?」

「名前も、記憶も。膨大で持ちすぎて、もう忘れた……」

「よくわかんないけど、すごい……」

 感嘆の声をあげ、アクアは、男に尊敬の眼差しを向けた。

「同じ名前だと、色々面倒なんだ」

「じゃあ、俺がつけてもいい?名前」

「必要ない。食事が終わったら、失礼する」

 タスクが、見かねて口をはさんだ。

「アクアの言うとおり、外も暗いですし、この雪ですし、お急ぎでなければ、良かったら、泊まっていきませんか?」

 二人の気遣う視線を受けて、男は、短くため息を吐いた。

「……分かった。好意に甘えよう」

「じゃあ、もう一回訊いていい?」

 アクアが、笑顔で言った。

「名前は?」

「好きに呼んだらいい。決まった名前なんて忘れたと言ったはずだ」

「決めていいの?じゃあ……クロ」

 タスクが、呆れた様にアクアを見た。

「クロって……。もう少し何か」

 考え直すように掛けた言葉を、男が遮った。

「クロか。分かった」

「え?」

 タスクは、驚いて男を見つめた。

 クロと名づけられた男は、涼しい顔で食事をしている。

「い、いいんですか?そんな名前で」

「何でもいい」

「アクア」

 頼むから考え直せと、タスクが視線を送る。

「え~?クロ、クロ……クロ」

「クロから離れろ」

「クロキ!」

「まぁ、クロよりは、いいか……」

 タスクは、ホッと息を吐いた。

 男は、興味なさげに黙々と食事を進めていた。

「クロって呼んでいい?」

「どっちでもいい」

 やはり男は、興味なさげに呟いた。            

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