魔術ー2

*   *   *   *   *


 休日は、いつもなら、家で何をするでもなくのんびりと過ごしているのに、こんなに出歩いているのも、テンは、自分でも珍しいと思っていた。


 専科を出たテンは、町の大通りを、海の方へと歩いていた。


 空は、絵の具で塗りつぶしでもしたかのような青だった。塗り忘れられた真っ白な雲が、ゆっくりと形を変えながら流されていく。


 普通なら、休日にはもってこいの天気で、良い予感とやらを感じるのだろう。


 しかしテンは、不機嫌に顔をしかめたままで、視線を僅かに下げて歩いた。


 向かう先は、リタのアパート。


 大通りから路地に入り、それを抜けた先の石畳の道の両脇に、4階建ての建物が肩を寄せあっている。でこぼこの屋根は、見える限り続いていた。


 薄い檸檬色の外観と、真っ白な木製の扉。他より幾分目立つ建物の前で、テンは立ち止まった。これが、リタのアパートだ。店からも、さほど遠くない。


 リタはこの町の生まれで、家族も近くに住んでいるが、学校を出てからは一人暮らしをしていた。


 リタの部屋は、ここの4階だ。


 延々と階段をのぼる度に、テンは、思っていた。下の階も空いていたのに、何でわざわざ最上階なんだ、と。4階のリタの部屋に辿り着いた時には、いつも息が上がっている。


「はぁ~……」


 項垂れて息をついた後、ベルを鳴らして返事を待つ。


 磨きのかかった廊下には、テン以外人はいない。


「あれ?」


 中から反応はなく、テンは、もう一度、とベルに指を伸ばした。


 ――――ドサッ。


 ベルを鳴らすより先に、中から物音がして、仕方なく指を戻す。


 しかし、待っていてもリタは現れない。


 不審に思ってノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった――――いつものことだ。


リタは、在宅中は鍵をかけない。やはり、留守ではないらしい。


 短い廊下の先に広がるワンルーム。きれいに片付けられた部屋の、窓際にリタはいた。


 窓を少しだけ開けて、室内に風を通し、丁度よく角度のついた、ひとり掛けのソファーに座っている。足は、窮屈そうに折り曲げてソファーに乗せ、上半身は、背にゆったりと凭れかけて。


 傍に置かれたサイドテーブルには、シディアに借りたらしい本が積み重ねられていた。1冊だけ、床に転がっている。


 窓からは、心地よい日差しが降り注ぎ、部屋はそのおかげで暖められ、リタを眠りへと誘っていた。目は薄くぼんやりとだけ開いていて、それも、今、瞼の向こうに消えたり現れたりを繰り返している。


 テンが入ってきたことにも、気づいている様子はない。


 テンは、落ちていた本を拾い上げた。


「おいっ」


 言葉と共に、軽くリタの頭に降り下ろす。


「いてっ!」


 声を上げ、頭を擦りながら、リタはテンに非難の目を向けた。


「寝てたのに~。何だよ、いつ来たの?」


「(寝てたのかよ、あれ……)今」


「ベル鳴らせよ」


「鳴らしたろ……」


 リタは首をかしげて、数分前を思い出そうとしながら、小さな台所へ歩いていった。


 テンは、重ねられた本のタイトルを1つずつ確かめてから、今までリタが座っていたソファーに腰を下ろした。


 丁度いい日差し、暖かく吹き込む風。リタがうたた寝する気持ちも、わからなくもない。


「寝るなよ?」


 コーヒーの香りと釘を刺すリタの声に、ぼんやりしかけたテンは、顔を上げた。


 マグカップ2つ、丁寧にクッキーまでトレーにのせて、リタが戻ってくる。


 部屋の中央に陣取っている、深い海の色のソファーに座り、黒のテーブルにトレーを置く。


 テンは、うたた寝する前にと、リタが、座るのとは反対側にある1人掛けのソファーへ移動した。窓際に置かれていたものとセットの、黒いソファーだ。窓へ向けて、斜めに置かれている。


 どっかり腰を下ろして、本を、体と肘掛けの間に置いた。


「シディアのとこで、本借りてったらしいな」


 テンは、クッキーを1つ摘まんで口へ入れた。


「……美味い?」


 すれ違った会話に、テンが顔を向けると、リタは、じっとテンの反応を待っていた。


 テンは、黙って、もう1つクッキーを口へ放り込んだ。味をしっかり確かめてから、答えてやる。


「美味いんじゃない?」


「何でそんな曖昧なのぉ?!」


 リタは、不満を顔いっぱいに表していた。


「何?美味いって言ってんだから、いいだろ」


「だって!『かもしれない』がついてる!美味いか、いまいちか、ちゃんと答えろってぇ~!」


「店長のとこ持ってって、聞いてみれば?そんなに不安なら」


 リタは、拗ねた顔をしてクッキーをかじった。


「店長に持ってったって、『よくできた』って言うだけじゃん」


「……じゃあ、『よくできてる』んだろ?」


 テンは、もう1つクッキーを口に入れた。


 まだ納得できないのか、リタは、不満げにコーヒーを飲んでいる。


「うまい」


 コーヒーを口にする前に、テンがリタの望み通りはっきり告げると、彼は、珍しく照れくさそうに視線を泳がせた。


「……今更言われても、嬉しくない」


「へぇ~。顔、赤いけど?」


 クールな口調で意地悪に指摘すると、リタは元気よく言い返してきた。


「言うと思わなかったんだから、仕方ないだろ!つーか、何で最初からそう言わないんだよ~!」


「言ったろうが。お前が素直に受け取らないからだろ」


「テンの言い方が素直じゃないんだよ~!」


 それだけ言うと、リタは大人しくなった。クッキーを1つ取り、口へ入れる。そして、なんとも嬉しそうな顔をして笑った。


「何、ニヤニヤしてんだよ。気持ち悪い」


 訳がわかっていながら、テンが毒つくと、リタは、満面の笑みを向けてきた。


「お前に誉められてんのに、嬉しいに決まってんじゃん」


「俺に誉められて、嬉しいの?」


「嬉しいよ!俺にとっては、すごい奴なんだから」


 リタは、感情をストレートに口にする。恥ずかしげもなく、真っ直ぐに。出会って何年になるのか、テンは、いまだに対処に困っていた。照れくさくて何も返せないでいると、リタは、そういえば、と訊いてきた。


「休みの日に珍しく出歩いちゃって、何か用だったの?」


「いや、別に。シディアのとこに行ったら、午前中にお前が来たって言ってたから」


 リタは、そこでようやく、テンの脇にある2冊の本に気がついた。


「本を借りに行ったから。テンも?何?」


「歴史書」


「へぇ~」


 2人は、揃ってコーヒーをひとくち、喉へ流し込んだ。一瞬、部屋の中が静寂で満たされた。


「何で?」


「何で?」


 同時に顔を上げて、発した同じ言葉。2人は、ポカンとしたあと、ほとんど同時に吹き出した。


「あ~、もぉ~……」


 笑いの残る顔で、リタが息をつく。


 テンも、小さく笑みをこぼして、息をついた。


「魔術の関連書、持てるだけ持ってったって?」


 テンが言うと、リタもニヤリと笑って返した。


「そっちこそ。歴史書なんて、今さら何?」


 お互いの思惑など、聞かなくてもわかっていた。


 テンは、風に揺れるカーテンとその向こうを見つめて、コーヒーを味わっていた。


「あの人さぁ……」


 リタは、静かに話し始めた。


「あのギターの人、店長のこと、どうしたいんだろ……」


「あぁ。明らかに、あれ、店長が捜し人だって考えの言動だよな……」


 ギターが聴きたいといい、テンが止めると、それならと、自ら例の曲を弾き始め、店主に興味津々で。あそこまでして、一体何のために。


「偽名まで使って……」


「偽名?」


 テンが聞き返すと、リタは、僅かに目を見開いて見つめ返してきた。


「うん……偽名」


「……ふーん……」


 テンは、また、窓の外へと顔を向けた。


 リタが、乾いた笑いを漏らす。


「やっぱり関心なかったか……。だと、思ってたけど……」


「でも、とっさの偽名にしては、名乗りなれてるっていうか……」


「あー、確かにそうかも。ラスティもレオンも、ぽいもんな。見えたものから、それらしいのを探すのに、慣れてんのかぁ~……」


 リタの話を聞きながら、テンは靴を脱ぎ、ソファーに足をのせて彼の方へと体を向けて座り直した。


「ラスティは?」


「あのとき呑んでた、カクテルの名前」


「じゃあ、レオンは?」


「いつもの果物屋の隣に露店出してる、店の名前」


「いつわかったの?」


「聞いたとき。胡散臭いんだもん。だいたい、あれ弾いてる時点で、怪しいし?前に、気配だけで、こっち見てないのに俺だってわかったことがあって、もしかしたら、と思ってさ。とりあえず、あの本を」


 リタは、眉尻を下げて笑った。


「まぁ、読んでどうなるもんでもないかもしれないけど」


「読みながら、うたた寝してりゃな……。でも、店長言ってたろ?何が幸いになるかわからないんだから、知識つけといて損はないって」


「……そうだな……」


 リタが、コーヒーに目を落として微笑んだ。


「お前の力にも、もしかしたら、なれるかもしれないしな……」


 思いもよらない言葉に、テンは、ポカンと口を開けていた。何故か痛む心を、もて余したままで。

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