理由
専科の建物は、古いがしっかりしていて歴史があり、美しい。構造が複雑でなければ、言うことなし――――誰もが思うことだった。
何日か前にアルアの町に入ったこの男も、例外ではなかった。
広場になっている中庭に出るまでに、軽く一時間かけてしまった。入り口にあった案内板で、場所をしっかり確認していたはずなのに、だ。
「も~……だから、嫌だったんだよな~、ここだけは」
中庭を見渡せる石のベンチに、ため息をついて腰を下ろした。
植木が作る木漏れ日のベンチ。降ってくる日の光が、黒のジャケットと黒のズボンに、歪んだ水玉模様を作った。僅かに波打つ髪は、動く度にそれを反射していた。
ジャケットから、小さなシガレットケースを取り出す。反対の手で、ポケットからジッポを取り出すと 、片手で器用にタバコをくわえて火をつけた。先端が、オレンジ色に燃える。タバコを細い指の間に挟んで、煙をゆっくり吐き出した。
よく晴れた空を暫く眺めてから、タバコを口の端にくわえ直して、ギターを取り出す。
中庭は、多くの学生が行き来をし、そして、休息をとっている。
男は、ポロポロと、曲にならない音を奏で始めた。学生たちは、ちらりと男を見るだけで、全くの無関心だった。やがて、男の鳴らす音が曲になる頃、中庭にいる学生たちが、静かに騒ぎ始めた。
男の奏でる音色にではない。
しかし、男は、ニヤリと口角を上げて笑った。
真っ直ぐに、近づく足音がある。
「こんにちはぁ~」
明るい元気のいい声が、頭上から降ってきた。
男は手を止め、声の主、シディアを見上げた。
笑みを浮かべ、右手にタバコを挟んで口から外す。顔を横に逸らして、煙を吐き出した。
「こんにちは」
人の良い笑みで、もう一度、シディアを見上げる。
シディアも同じに笑い、断りもなく、男の右横に座った。
「珍しいところで弾いてるんですねぇ?」
シディアは、中庭広場を見渡していた。
「うん……」
男は、長くなった灰を、出しておいた携帯灰皿に落とした。
「最初にこの町に来たときにね、若い人たちが集まるなら、ここで弾くのが早いかなぁって思ったんだけど……」
「あっ!わかったぁ」
シディアが、子どものような笑みを浮かべて男の言葉を遮った。
「門のとこの案内板を見て、面倒くさくなったんでしょ?」
「正解」
男は、小さく声に出して笑った。
「ホント、ややこしい建物だねェ。迷路だよ……」
「慣れれば、そうでもないですよ?近道もできるようになるし」
言葉を交わす間も、シディアは、中庭を行く学生たちに手を振ったりして応えている。
「シディア君、人気だねェ」
「結構、部屋に篭ってることが多いんですけどね~。まぁ、同じ講義とったりしてると、こんなひょろ長いと印象に残るんじゃないですか?」
「長身でカッコいいんだよ。じゃなきゃ、あんな好意的な視線は来ないから。それに、シディア君は声かけやすいから。親しみやすいっていうのかな」
「そりゃどーも」
シディアは、誉められて嬉しいのか、素直に顔一杯に笑みを浮かべた。
「レオンさんは、目立ちませんねぇ?」
悪意なく言われて、男はどう返したものか、困ったように笑った。
「せっかくギター弾いてんのに」
「そんなに目立ってなかった?」
「木陰に馴染んでましたよ?」
「そっかぁ。苦労してここまで来たのになぁ」
男は、タバコをくわえて、口の端から煙を吐き出した。
その姿を見て、シディアが笑った。
「そうしてると、店長みたいですね~」
「店長って、Rufellviaの?」
「そう。店長より、爽やかだけど」
男は軽く笑って、タバコを指に挟み、煙を地面へ吐き出した。
「いいねェ、君は。素直で……普通で、まっすぐだ」
「誉めてます?」
シディアは、眉をひそめて男を見た。
「誉めてるよぉ」
男の言葉に、笑い声が混じる。男は、微笑みに目を細めてシディアを見つめた。
「シディア君が、羨ましいな」
「……はぁ」
訳がわからないと、シディアは、頭を掻いて空を仰いだ。そして、考え込むように唸り声をあげた。
「……レオンさん」
「何?」
「捜してる人、いるんですよね?さっきの曲を知ってる人」
「うん」
「……ホントは、聞かない方が、お互いのためにいいんでしょうけど……捜して、どうするんですか?」
「え?」
男が聞き返すと、シディアは、真剣な表情で男を見つめていた。
「どうしたくて、捜してるんですか?」
男は、口元にだけ、笑みを浮かべた。
「それを知ってどうするの?良いことなら、協力してくれる?悪いことなら、止められる?」
シディアが、ケラケラと明るく笑った。
「無理でしょうねぇ、どっちも。俺、普通だから」
「ますます聞く意味ないじゃない」
男も、目を細めて笑った。
「何だか、いいなぁ、シディア君は」
「普通で?」
「そう、普通で。……仕方ない。答えてあげよう、捜してる訳」
「マジ?!」
携帯灰皿にタバコを押し付ける男を、シディアは、まるで子どものように目を輝かせて見つめた。
「うん、素直でいい子だからね」
男は同じ笑みで、言葉を続ける。
「昔、会ったことがあるんだよ。そいつがいなければ、僕はもっと、違う人生を歩んでいた……そう思うと、許せなくてね。だから、だよ」
「……やっぱり、悪いことなのかぁ」
「止める?」
「できないって言ったじゃないですか」
シディアは、本を脇に置いて立ち上がった。
「教えてくれたお礼に、コーヒーでもおごりますよ」
「お礼?」
男は、ポカンとシディアを見上げた。
「あなたのことを聞いてから、気になって仕方なくて。レポートの提出期限迫ってるのに、集中できないし。これで、ようやくレポートやれそうです。あ!でも、コーヒーって言っても、そこの自販のインスタントですけど。待っててください」
走り去るシディアを茫然と見送った後、男は、肩を揺すって笑った。
「調子狂うなぁ、あの子は」
* * * * *
専科の建物を出た男は、蛇のようにくねった町の大通りを歩いていた。例の曲を口ずさみながら、広場へと。
大通りには、華やかな洒落た店が並び、人通りは多い。店は、どれも繁盛しているようだった。
ショーウインドウを見ながら、ゆっくりと進む。
並ぶ店の中に1つだけ、長く空き店舗のままとなった建物があった。
店内が見渡せるショーウインドウのガラスも、扉に並ぶ6つのガラスも、埃ですっかり曇っている。がらんとした店内に残された、備え付けのカウンターや棚も、床も、元の色を隠すほどに汚れていた。長く使われていないことは、誰から明らかだった。
周りが華やかな店ばかりであるだけに、この古びた建物は、かなり浮いている。
男は、この空き店舗の前で立ち止まり、1メートルほど離れた場所から正面に向き直り、じっと眺めた。口元は、妖しく弧を描いている。
再び、通りを広場へと歩く。
すると、進行方向から、知った顔が近づいていた。
これから向かう先、広場にあるRufellviaというコーヒー店の店員、リタだ。肩から、大きな帆布でできたカバンを下げている。
多くの人が行き交う通りのためか、向こうは男に気づいていない。
男は、古びた空き店舗を横に、リタが近くに来るのを待った。
ふと、自分のことを「目立たない」と言ったシディアのことが頭に浮かんだ。気づかずに通り過ぎられても困る。仕方なく、とりあえず、大きな声を出さなくても呼び止められる距離まで待ってから、リタに声をかけた。
「リーター君」
リタは驚いた顔をして、ようやく、男を見つけた。
男は、傍に来るのを待って、声をかける。
「お仕事?配達?」
肩から下げた大きなカバンから、コーヒー豆の袋が覗き見えた。いい香りも、僅かにだが、漂ってくる。腰の辺りには、ヒップバックもつけていた。
「はい。この辺りの店に、何軒か」
人当たりのいい笑みで、リタは応えた。
このリタという少年は、案外と賢い。知恵が働く。男は、注意して言葉を口にのせた。
「今、専科でシディア君に会ったとこなんだよ。あの子、結構、目立つんだね」
「あぁ、背ぇ高いし、人当たりいいし、人懐っこいし」
笑顔で応じてはくれるが、腹の底は知れない。
「収穫ありました?」
「ややこしい構造してるから、行くの避けてたんだけど、やっぱり、最初から行ってみるべきだったかな」
含みを残して、男は、それじゃあと、リタを置いて歩き出した。
背中を向けたままだが、リタがこちらを振り返ったのがわかった。
しかし、急いで店に戻るなんて行動は取らないだろう。男は、肝心なところを言っていない。捜し人を見つけたのかどうかも、それが誰であるのかも。慌てて戻れば、それは、捜し人がRufellviaの中の1人だと、男に示すことになる。
専科の建物を経験した後だと、この町の迷路のような作りも、何ということもないように思えて、男は、足取りも軽く広場へ向かった。
「さあ、みんな、どう出るかな?」
心底楽しげに、男は笑った。
程なく着いた広場は、今日も賑やかだった。
Rufellviaは、相変わらず、控えめな主張。
チョコレート色の扉を開けると、取り付けられている鈴が、涼やかな音をさせた。続くようにして、男へ「いらっしゃい」と声がかかる。カウンターの向こうにいる、店主の声だ。
テンは、奥のテーブルでオーダーを取っている最中だった。
リタが配達中のためか、そこそこ忙しいらしい。テーブル席に2人ずつと、カウンター席の端に1人。
男は、店主の正面になるカウンター席に座った。
「何にしましょう?」
「コーヒーセット。おすすめコーヒーでお願いします」
言葉と共に、笑顔が交わされる。
「はい。コーヒーセットですね」
カウンター裏で食器を洗っていた店主は、手を拭いて、コーヒー豆が並ぶ方へと体を向けた。
テンが、オーダー表を片手にカウンターへ戻ってくる。店主とオーダーのやり取りをした後で、テンはお菓子を用意するために、厨房へと引っ込んでいった。
店主は、すぐに、紙袋を3つ抱えて戻ってきた。
コーヒーミルに、豆がセットされる。
男は、店主がハンドルに手をやる前に声をかけた。顔には、何とも楽しげな笑みが浮かんでいた。
「店長さん」
顔を上げた店主を、人差し指で呼ぶ。
店主は、訝しく眉を寄せながらも、くわえタバコのまま、素直に男に顔を寄せた。
男は、店主がタバコをくわえているのとは反対の、左耳へと少し口を近づけて、他に聞かれないよう片手を周囲から遮るように口元に当て、囁いた。
「テン君って、魔術師でしょ?」
男は、すぐに体を戻し店主の様子を窺った。
店主は驚きに目を見張り、こちらを見ている。口からタバコが零れ落ちそうになっていた。本当に落としてしまう前に、タバコを灰皿に押し付ける。
何と言ったらいいのかわからない様子の店主を見て、男は言葉を続けた。
「僕、何となくわかるんですよ、そういうの。空気かなぁ?」
店主は、男から目を離せないでいた。鋭く、威嚇するように見据える。
「あんた……」
絞り出すような声だった。
「……公園の」
「お互い、年を取りましたねェ」
男は、表面、穏やかに微笑んだ。
応える店主は、鋭い眼差しはそのままに、口角を上げた。
「20年以上前だったか?」
「きれいに忘れてましたねぇ、店長さん。そんなに面影ないですか?」
「そっちこそ、よく覚えてたな。あんな一時のこと」
男が、妖しく笑みを浮かべる。カウンターに両ひじをついて、手を組んだ。
「ねぇ、店長さん……」
静かで、それでいて、ひどく愉快だと言うような、男の声音。
店主は、苛立たしげに短く息を吐いて、コーヒーミルのハンドルに手をかけると、そちらに視線を落とした。豆を挽く音が、香りと共に広がる。3種のコーヒーが、手早くサイフォンにセットされていった。
男は、口元の笑みを深くした。
「……もう1つ、忘れてること、ありません?」
店主は、顔をあげずに、眉をひそめた。思い当たるふしがないという風な店主の表情を見て、男は小さく喉の奥で笑った。
「かわいそーに」
わざとらしい口調と、大げさなため息。
今度こそ、店主は、訝しげな表情を男へ向けた。
訳がわからないと様子の店主が、何か言いかけたとき、厨房の扉が開いた。
店主は言葉を飲み込み、カップを選ぶため、男に背を向ける。
男は、機嫌よく笑って、カウンターの向こうで忙しなく働く2人を眺めていた。
テンは、男と目を合わせようともせず、奥のテーブルとカウンター裏とを行ったり来たりしている。
男も、それ以上は、何も喋らなかった。店主がハンドルに選んで運んできたコーヒーセットを、ゆったりと味わう。
カウンター席の客は、早々に店を出ていった。奥のテーブル席にいる2組の客も、男がゆっくりしている間に帰っていった。
店の中が、シンと静かになった。
男は、ケーキを食べ終え、カップに半分ほど残るコーヒーを味わっている。
カップの中を穏やかな笑みで見つめていた男が、ふと、独り言のように呟いた。
「僕は、そんなに殺気だって見えるのかなぁ?」
店主は、丸イスに座り、タバコをふかしている。
「目が笑ってませんから」
さらりと返された言葉に、男は、感心したように声を上げた。
「へぇ~。……おもしろい店長さんだなぁ」
機嫌よく、楽しげに男は店主を眺めていた。
「そりゃどーも」
言葉と共に、店主が笑みを返す。声音と同じ、挑戦的な笑みだった。
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