メロディ

「いらっしゃいませ~」


 話の途中で鳴った鈴の音に、リタが、条件反射で立ち上がる。そして、入ってきた客を見て、無言で、また元通り座り直した。


「何?その態度ぉ~」


 扉に手をかけたまま、シディアが、ムスッとした顔で立っていた。


「タイミングよすぎ」


 頬杖をついて、リタはリタで、不満げな顔をしている。


 シディアは、訳がわからないと、眉を寄せた中へ入ってきた。客を1人、後ろに従えている。


「あ……」


 リタは、目を見開いて、シディアが連れてきた客を見つめた。テンは、飲み干したコーヒーのカップをゆっくりと下げながら、無言でその客を見る。


 僅かに波打つ髪と、人当たりのいい笑顔。


「こんにちは」


 ギター男だ。


「そこの広場の噴水で、ギター抱えたままムズカシイ顔してるからさ」


 リタの隣に座ったシディアが、訳を話し始めた。これまた、親しみやすい笑顔を浮かべて。


「どうしたんだろーって思って声かけたら、ここに入りたいけど、1人じゃ入りづらいって。おごるから、一緒に入んない~?って誘われちゃって。で、おごりなら喜んで~って」


「お昼もまだだって言うから」


 男は、シディアの隣に座った。


「昼めしまだって、シディア、今、何時だと思ってんの?」


 席を立ったリタが、眉をひそめてシディアを振り返った。


 店の壁に掛けられた古びた時計を見上げ、シディアは、平然と答えた。


「2時、半?」


「昼めしまだとか言う時間は、とっくに過ぎてるって」


 リタの呆れた顔もお構い無しに、シディアは笑っている。


「資料探してたらさぁ、懐かしい本発掘して。読み耽ってたら、食べるタイミング逃しちゃって」


 リタとテンは、ほとんど同時にため息をついた。


 店主だけが、愉快だと声に出して笑っていた。


「その人に会えてよかったな。寧ろ、おまえこそ、ムズカシイ顔して悩まなきゃいけないんじゃなないの?」


 テンが、カウンター越しに嫌味を飛ばすも、シディアには効き目がない。


「ホント、ラッキー」


「シディア、メシ食いに出てきたの?」


 リタは、もう何を言っても無駄だと悟ったのか、話題を変えた。


「ん~、ついでに何かお得なものがあったら、とは思ってたけど。ノートとかファイルとか買いに来たんだ」


「そんで、今手ぶらって。目的、変わってない?」


「おごってくれるって言うんだもん。変わるっしょ?普通」


 嬉々としてメニュー表を見つめるシディアに、2人はもう、ため息しかない。


「遠慮しないで、好きなもの頼んでね?」


 男の言葉を聞いて、シディアは、幼い子どものように元気よく返事をした。


 男は、ニコニコとシディアを見た後で、カウンター裏の3人へ顔を向けた。


「のんびりした店だねぇ?」


 リタとテンが、すぐさま言い返す。


「今、たまたま」


「客がいないだけですっ!」


 テンの言葉に合わせるように重ねられた、リタのセリフ。息もぴったりに反論した2人を見て大笑いしているのは、カウンターの男ではなく、店主の方だった。


「そんな、力一杯反論すんなよ。普段から、こんなにいないみたいじゃねぇか」


「……だぁって~……」


 むくれ顔でリタがしようとした言い訳は、頭を撫でた店主の大きな手で止められた。


 店主は、くわえタバコのままで、男へ笑みを向けている。


「何か、こいつらと仲良くしてもらってるみたいで」


 男は、穏やかに微笑んでいた。


「いえ。こっちが、仲良くしてもらってる方ですから。賢い店員さんなんですねぇ」


「でしょ?ウチの一番の売りですから」


 恥ずかしげもなく吐いた店主のセリフに、リタもテンも、思わず動きが止まった。リタは、この上なく嬉しそうに笑みを深くしていったが、テンは、赤くなった顔を隠すように俯いていた。


「あれ?ここの売りって、あなたのギターじゃないんですか?」


「あ~……」


 店主は、紫煙を吐き出してから言葉を繋いだ。


「それは、俺の趣味なんで。ヒマを見つけて、ちょこちょこやってる程度です。あんまり夢中で弾いてると、こいつに叱られるんで」


 扉をノックする要領で、店主は、テンの頭を小突いた。


「今は?弾いてくれないんですか?聴きたいなぁ」


 男の口元の笑みが、深くなる。瞳はじっと、店主を捕らえていた。


「レオンさん」


 テンが、口を挟んだ。いつものように、無愛想に。


「店長がギター弾き始めると長くなるんだから、サボらせないでくれません?」


 店主が、横で小さく笑った。


「ね?怖いでしょ?」


「残念だなぁ」


 男は、愉快だと琥珀の瞳を細めた。一見すると優しくて穏やかな笑みなのに、やはりそこには違和感がある。テンは、僅かに眉を寄せて男を見やった。


「ご注文は?何にします?シディア、お前も決まったか?」


 店主が訊いた。


 それに先に答えたのは、ずっとメニューを眺めていたシディアだった。


「俺、ミックスサンドとおすすめコーヒー!」


「お前、ホント遠慮とか……」


 呆れ顔のテンの言葉を、男は笑顔で遮った。


「いーよ、付き合ってもらってるんだし。じゃあ、僕はケーキセット。3種のベリータルトで。コーヒーは、僕もおすすめにしようかな」


 男は、注文の後、店をぐるりと見回した。


 店主が、豆を選びに樽の前にいる。


「……あなたが弾かないなら、」


 思い立ったように、男は、店主の背中に言葉を投げた。そして、言葉を続ける。


「弾いても、構いませんか?」


「どうぞ」


 店主は、背を向けたまま軽く答えた。2種類の豆を、それぞれ紙袋に入れて、カウンター裏に戻ってくる。


「あーでも、コーヒーができるまでにしてくださいね。冷めたらもったいないんで」


 袋をテンに渡しながら、店主は、男に笑顔を向けた。タバコをくわえた口の端を上げて、しかし、瞳はいつになく射るように。


 豆を挽くテンは、それに気づいていなかった。サンドイッチを作りながら、こっそり様子を窺っていたリタだけが、それを見ていた。いつもと違う店主の表情を、少々、緊張の面持ちで。


「じゃあ、少しだけ」


 男は、気にする様子はなく、傍に立て掛けていたケースからギターを取り出した。そして、男は、イスを回転させてカウンターに背を向ける形をとった。


 ポロポロと弦を遊ばせた後で、奏で始めた曲。


 テンもリタも、店主も、そしてシディアも、聞こえた曲に一様に反応した。


 店主だけが知っている、あの曲だった。


 シディアが、テンにそっと視線を送る。テンは、何も言うなと、シディアを睨み見た。シディアは、小さく頷いた。


 挽き終えた豆を店主に渡して、テンは、ケーキの準備のために厨房へ引っ込んだ。


 あの男のことは気になる。何をしにここへ来て、何のためにあれを弾いているのか。


 しかし、あの曲は嫌いだ。捨てられた頃を思い出す。客相手に、弾くななんて言えないし、そんなことを言ったら、知っていると言っているようなものだ。


 苛立たしげに息をついて、テンは、気持ちを切り替える。


 3種のベリータルトは、店主の作品だった。少し味見をさせてもらうと、やはり、自分が作るものよりも美味しいと感じた。先ほど食べたシュークリームも同様に。せめて、盛りつけくらいは――――と、集中していると、店の方から店主の声が聞こえてきて、思わず手を止めた。


「いい曲ですね~。何ていう曲なんですか? 」


 白々しく尋ねる店主に、テンは、怒りすら感じた。


「(あの、バカ店長っ!)」


 余計なことを言い出す前に戻ろうと、テンは、飾り終えたケーキ皿を片手に、なるだけ平静を装って扉を開けた。


 カウンター裏では、サンドイッチができあがっていて、サイフォンのコーヒーがカップに注がれるところだった。


 厨房から出てきたテンを何気なく振り返ったリタは、彼が纏う恐ろしいオーラに口元を引きつらせた。店主の身を案じて視線をやると、気づいているのかいないのか、満足げに自分の淹れたコーヒーを見つめている。


 男は、まだ、こちらに背を向けてあの曲を弾いていた。


 テンは不機嫌を隠しきれていない顔のまま、トレーにケーキとフォークをセットした。


 曲が止まる。


「わからないんですよ」


 背を向けたまま、穏やかな声で男が答える。


「そーなんですか?」


 やはり、白々しく店主が訊き返した。淹れたコーヒーを、リタとテン、それぞれに渡して。


「どうも、子どもの頃に聞いたみたいで、メロディだけ頭に残っているんです。何か、この曲のこと知りませんか?」


 ギターをケースに片付けて、男が振り返る。人のよい笑みが浮かんでいた。相手を警戒させないための笑みだ。


 テンは男に、リタはシディアに、それぞれ注文の品を運ぶ。そして、カウンター裏の店主に、2人ともが視線をやった。


 余計なことを言うなという警告に、さすがに店主も気づいたようだった。軽く笑って、男に答える。


「俺が先に訊いたんですけど。何ていう曲ですかって」


「そっか、残念。ギターを弾いてらっしゃるから、ご存知かと思ったんですけど」


「すいません、お役に立てなくて」


 リタもテンも、こっそり安堵の息をついて、カウンター裏に戻った。


 男はさっそく、カップを手に持ち、コーヒーの香りを楽しんでいる。


「いい香りですねぇ」


「おすすめ、ですから」


 男へ応えながら、店主は、サイフォンに残った彼に出したのと同じコーヒーをカップに注ぎ、テンに渡した。


 店主の意図がわからない。テンは、不思議に思いながらも、とりあえず、素直に受け取って口へ運んだ。


 カウンターの向こうでは、男が、同じコーヒーを口にしている。それを眺めながら、店主の淹れたコーヒーをそっと喉へ流す。直後、テンは動きを止めた。そして、カップをゆっくりと下ろしながら、中をじっと見つめる。


 口に広がり、鼻を抜ける独特の香り。


 テンは、頬を桜色に染め、悔しげに俯いてフイッと横を向いた。


 いつもは、呑気でやる気のないサボり魔の店主なのに、本当に人の心情を察することだけはすば抜けている。


 冷めないうちにと、コーヒーを口にして、テンはホッと息をついた。心が落ち着いていく、そんな味と香りがする。焦りと苛立ちで、少々感情的だった自分を、程よく冷ましてくれる。


「(……バカか、俺……)」


 冷静さを取り戻し、それでも自分を苛み、そしてまた、コーヒーに癒される。己の未熟さを責めていて、テンは、小さく声を漏らした。


「あ……」


 そっと、店主に視線をやる。彼は、サイフォンをきれいに洗い、磨き上げていた。タバコをくわえて、紫煙を燻らせて。


「(あの男にも、これを出したんだ……)」


 男に目をやれば、幸せそうに顔を綻ばせてケーキを食べている。


「もう1ついいですか?店長さん」


 綻ばせた顔のまま、男は、フォークを置いてカップを手に取った。


「何でしょう?」


 店主は、短くなったタバコをシンクに置いている灰皿に押し付けた。煙が、一筋だけ短く上がった。


 男は顔の高さにカップを持ち上げて、穏やかに微笑んでいる。


「おすすめって、どうやって決めてるんですか?」


 店主は、フッと軽く笑みをこぼした後で、堪えるように、肩を揺らして笑い出した。


 リタもテンも、カウンターの向こうでサンドイッチを頬張っていたシディアも、店主を訝しく見やった。


 男は、一体、何事なのか訳がわからず、小首を傾げた後で、リタにそっと尋ねた。


「ねェ、僕の質問は、そんなにおかしかったかな?」


「いえ……当然の疑問だと思います」


「だよねェ?」


 2人して、店主へ視線をやると、ようやく笑いが収まったらしく、目尻を拭って息をついていた。


「すいません。訊かれたことが変だって言うんじゃないんです」


 まだ少し、店主の顔には、さっきまでの名残があった。


「失礼ですよ、店長ぉ?」


 リタが、眉をひそめて諌めた。


「だよな?ホント、すいません」


「いいえ」


 男は、もうにこりと笑っていた。


「何だったんですか?さっきのは」


「いや……まさか、1日に2回も、同じことを訊かれるとは思わなくて」


 店主は、意地悪な笑みでテンを見た。


「……あっ」


 テンはようやく、店主が涙を滲ませるほど笑った訳に気がついて、顔を赤くした。


 他の3人は、まだ訳がわからず、相変わらずポカンとして店主を見つめている。


「(似た者同士って言いたいのか、くそ~)」


 同じ時に同じ疑問を持ち、同じコーヒーを処方される、なんて。


「えっと、オススメの選び方でしたっけ?」


 店主が、すっかり逸れてしまった話を、元に戻す。


 男が、にっこり笑って頷いた。


「はい」


「それは、俺の知識と経験です」


「知識と、経験……」


 訊くでもなく、男は繰り返した。そして、続いた言葉は――――。


「すごいなぁ。まるで、魔術でも見てるみたいだった」


 店主は、一瞬、ポカンとしたあと、弾けたように笑い出した。


 男は、それを眉をひそめて見つめ、誰にともなく尋ねた。


「僕、そんなに変なこと言った?」


 リタもシディアも首をひねる中、ただ1人テンだけが、顔を赤らめて皆から顔を背けていた。


「……いえ」


 拗ねたように、テンが答える。


「(そんなに笑わなくてもいいだろ!)」


 経緯は違うが、テンは、店主に似たようなセリフを吐いたことがあるのだ。


 ふと、釣られたように小さく笑う男の声が聞こえて、テンは、視線を戻した。


「おもしろい店長さんだなぁ」


 弧を描く口元。


 しかし、笑い転げる店主を見つめる瞳は、闇を宿し、決して笑ってはいなかった。

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