羨望

 午後の穏やかな一時。


「ありがとうございましたぁ」


 テンは、豆を買っていった老人を、レジから見送った。杖をついてはいるが、背筋と表情はしゃんとしていて、扉を開けて見送ったり手を貸そうものなら不機嫌な顔で睨んでくるのだ。リタもテンも、痛い目に遭っている。


 客は、テーブル席に近所の夫人が2人。


 店主は、例のごとく、奥のテーブルでギターを爪弾いている。曲ではなく、ポロリポロリと気まぐれに音を鳴らして。


 リタは、カウンター席に座り、店主の鳴らす音に耳を澄ませていた。


 テンは、カウンター裏で、のんびりと仕事を片付けていた。ふと、視線を感じて顔を上げると、リタが、じっとテンを見つめている。観察するようにして、真剣にじっと、思わず身を引きたくなるほどの眼差しに、訝しげに眉を寄せた。


「何?」


 問われても、リタは、ただじっとテンを見つめた。


「……何だよ、さっきから」


「うん……テンに愛想がなくてよかったなぁって」


「は?」


「いつもはさぁ、テンが笑ってくれたら、もっと客の入りもいいだろうなぁとか、思ってたんだけどぉ」


「そう言ってたじゃねーか。何?」


「そのカッコよさっていうか、キレイな顔で、その上頭いいだろぉ?そんで、愛想までよかったら、俺、どーすんの?」


「……別に、どうもしなくてもいいんじゃねぇ?」


「あーあ、俺もせめて、テンみたいな目がいいなぁ」


「俺より人気あるクセして、何言ってんの?」


 呆れて息をつき、テンは、仕事を片付け終わると、傍にある丸イスに座った。


「それは、テンがクールで近づきにくいからだろ?裏じゃ結構人気あるもん」


 なんだか妙に元気がない。どうしたのだろうと、テンがリタを見れば、リタは面白くないという顔をしていた。


「どーしたよ?」


「俺も、何か欲しい……」


 呟く彼の視線を追うと、何とも楽しげな顔をしてギターを玩んでいる店主の姿があった。


「?ギター?」


「ギターも……」


「も?」


 いつもはペラペラ喋るのに、へこんでいる時に限って言葉少なになってしまうのだ。いくら探ってみても、何が原因なのか、テンにはよくわからなかった。


 最後の1人が店を後にして、扉の鈴が静かになる。店主が、ようやく、ギター片手にこちらへ戻ってくる。


 リタはまだ、カウンターで面白くないという顔をしていた。


 紫煙を燻らす店主は、リタの後ろを行くその時、彼の頭をくしゃりと撫でていった。全部分かっているような笑みと、頼もしい眼差しを見せて。


「今のうちに、少し休憩するか」


 店主が、壁沿いに並ぶ豆の入った 樽の前で、淹れるコーヒーを選んでいる。ギターのボディを下に、ネックに軽く手をかけてまるで杖のようにして、並ぶ樽の前で悩んでいる。


 今の今まで奥の席でギターを弾いてサボっていた奴の言うセリフかと、テンは呆れたように、その後ろ姿を見つめた。


 やがて選ばれた豆を、傍にぶら下がっている紙袋に掬い入れ、店主は、リタのところへ戻ってきた。


「ギター置いてくるから、挽いといてくれ」


 ゆっくりと体を起こしたリタに手渡すと、店主は、スタッフルームへ消えていく。


 2人して、それを目で追った。


 リタは気だるそうに、豆の入った袋を持って立ち上がった。カウンター裏に入ってきて、小型の手動コーヒーミルを取り出す。


 浮かない表情のリタを見つめた後で、テンは、ポットを火にかけた。


 ガリガリと豆の砕ける音が、横から聞こえた。微かに香り出す、店主の選び出した豆の香り。不意に、リタが、肩を震わせて咽の奥で笑った。


 訝しく眉を寄せて見やると、悩みの種らしいリタの下がり目が楽しげに輝いていた。ガリガリとハンドルを回し、口元を弛ませて。


「あの人、何者?」


 リタの声は、すっかり元通りだ。沈みきっていた気分も浮上したらしい。


 店主の選んだ豆の香りが、辺りに広がっていく。


 テンは、スタッフルームから姿を現した店主に一度目をやってから、ポットに視線を戻した。敵わない、とため息をついて。


「……ホントだよな」


 あの大きな掌と、ただのコーヒー豆。フンフンと鼻歌を歌いながら、2人の傍に来る、くわえタバコの呑気でやる気のない店主なのに、一瞬で、リタの憂鬱を晴らしてしまった。


「できたか?」


 2人の間に立って、それぞれの状態を確かめる。


「はい」


 リタが、コーヒーミルの受け皿部分を外して、店主に渡す。


 店主は礼を言って、もう一度、リタの頭をくしゃりと撫でた。店主が、サイフォンをセットして、3人分のコーヒーを淹れてくれる。


 テンは、カップを3つ選んで、ポットで沸かした湯を注いだ。


「リタ、厨房の冷蔵庫にシュークリームあるから、取ってきてくれるか?」


「はーい」


 店主の言葉に返すリタの声は、嬉しそうに弾んでいた。ついさっきまで、そこでへこんでいた人間とは思えない上機嫌ぶりだ。


 店主は、子どもみたいな楽しげな顔でサイフォンを見つめている。


「店長、ずるい……」


 あの大きな掌と、コーヒー豆だけなのに。


「はぁ?」


 店主が、眉をひそめて、テンを振り返った。


「店長ぉ~」


 リタが、シュークリーム3つを、1つの皿に乗せて厨房から戻ってきた。


「ん~?」


「これ、店長が作ったの?」


「よくわかったな、リタ」


「カスタードクリームの量が違うもん。店長とテンじゃ」


 店主は、豪快に笑った。


「ホント、よく見てんなぁ。お前は」


 リタは、一瞬、ポカンとした後で、殊更嬉しげな笑みを浮かべた。


 それにつられて、テンも笑みを浮かべていた。


 へこんでいた原因が何で、元気になったわけが何でも、友だちが笑っていてくれることに、安堵しているのは確かだから。


――ねェ、それ、なんていう魔術?――


――あぁ、これか?これは、人を元気にしたり、心の傷を治したりする魔術だ――

 

 あながち、間違ってなかったのかもしれないーー温めたカップにコーヒーを注ぐ店主を見て、テンは、思った。


 カウンター裏の丸イスに、テンと店主が、カウンター席にリタが座る。


 リタは、本当に嬉しそうにシュークリームを頬張っていた。


「店長?」


 テンは、コーヒーを味わいながら、店主の作ったシュークリームを、目の高さに掲げてじっくり観察をしていた。


「ん?」


 店主は、すでにシュークリームを食べ終え、コーヒーを飲んでいる。


「店長は、どうやってその人に合う豆を選んでるの?」


「決まってんだろ?」


 店主は、口の端を上げた。


「知識と経験」


 店主の答えに、テンは、眉を寄せた。


 テンの代わりに、リタが、カウンターの向こうから訊いた。


「コーヒー豆の?」


「豆と香りと、心のだ」


「豆と香りはわかるけど、心って?」


「人が内側に秘めてるモンは、無意識に、表に出てきてる。動き、表情、日常の行動、声……。完治できなくても、ちょっとは前見て笑える位には、してやれるかもしれないだろ?」


 返す言葉が見つからず、2人とも、茫然と店主を見つめるしかなかった。敵わない――――普段は、呑気でサボり魔の店主なのに。


「……午後から雨かなぁ?」


 リタが、窓の外に目をやって呟いた。


「よく晴れてんのになぁ?」


 合わせるように、テンも応えた。店主に向けてしまった感心と尊敬を誤魔化すように、クールな口調で。


「お前ら、人が真剣にレクチャーしてりゃ……」


 不機嫌に表情を引きつらせた店主を、リタが、機嫌とりの笑顔で振り返る。


「冗談、冗談。店長の人間観察力?ってすごいですよね。それって、やっぱり経験?」


「知識もなきゃできないさ」


 リタは、残していたシュークリームを口へ放り込み、小首を傾げて店主を見やった。


「人間、何が幸いになるかわかんないんだから、得られるだけ、知識を会得しといて損はない。お前ら、もう少し、シディアを見習えな?」


「え~?メシ代削って、本買うの?」


 嫌そうに眉尻を下げたリタを見て、店主はまた、豪快に笑った。


 店主の言いたいことはそこじゃないことをわかっていながら言うリタに、テンは、ため息をついた。


「そこは見習わなくていいんだよ。そういえば、ウチにあるあの大量の本、あれ全部買ったの?」


 テンは、ひと部屋を埋めるほど置いてある本を思い出していた。


「あぁ、あれか?」


 店主は、カップの中の琥珀を、懐かしむように見つめて言葉を続けた。


「あれは、俺の実家にあったやつ……」


「あれ、全部……」


 信じられないと、テンの声が語っていた。


「必要だったし……まあ、いろいろ、な」


 昔を思い出している、店主の眼差し。


 テンが「いろいろ」の中身を尋ねようと口を開きかけた時、扉の鈴が音を立てた。


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