アルヴィース家の当主Ⅴ


 ズブ、と粘液がまとわりつくような嫌な音がした。


「……え?」


 『魔力灯』の頼りない灯りが僕の胸元を照らす。


 ――血が溢れていた。

 突き刺されたナイフが、僕の心臓をえぐっていた。

 そのナイフを、握っている人がいた。



 …………。



 なぜ?

 何が起きたんだ?


 信じられなかった。

 信じたくはなかった。


 僕は、目の前の女の子の顔を見た。

 アミカは笑っていた。



「本当におめでとうございます! リゼル様は見事試練に打ち勝ち、名誉あるアルヴィース家のご当主になられた! ――そう、鬱陶しいアルヴィースの最後の当主として、ここで一人寂しく死ぬんです!」

 


 アミカがナイフを抜く。僕の胸元からさらに大量の血液があふれ出た。

 膝を突き、崩れおちる。身体から力が抜けた。流れ出た熱い血液が地面に広がり、そして僕の身体中に広がっていく。


「……ア…………アミ、カ……? な、ぜ…………」


 僕は彼女を見上げた。

 するとアミカは血の付いたナイフを放り捨て、いつの間にか僕から奪い取っていた手鏡を持ったまま、返り血のついた顔でニッコリと微笑む。

 次の瞬間、アミカの身体から紫色の魔力が溢れ出し、それは彼女の全身を包み込んでいき、気付いたとき、アミカの姿は信じられないものへと変化していた。


「……!!」

「ふふっ、どうですかリゼル様。これが本当の私でーすよっ」


 両手を広げて片足立ちのポーズを取るアミカ。

 彼女の頭部には曲がった二つの角が生え、背中にはコウモリのモノに似た黒い翼が生えている。ボロボロだったメイド服の代わりに、今は妖艶な下着のように見える服を纏っていた。


 彼女の目は――妖しい魔力の光を帯びている。


 アミカは口元を押さえながら「うふふ」と笑った。


「さすがにもうわかりましたよね? 私は夜魔です。『誘惑の夜魔カティエ』と申します」

「アミ……カ、が…………夜……魔……?」

アミカじゃ・・・・・ありませんよ・・・・・・。や~ここまで来るのは大変でしたよぅ。リゼル様が“完全な当主”となってしまったらもうオシマイですからね! でも――これでもう安心です!」

「――あ」


 アミカが手鏡をパッと手放すと、地面に衝突した鏡が激しい音を立てて割れる。そしてブーツのような靴のかかとで思いきり鏡を踏みつけた。


「うふ、うふふふ! これでアルヴィースの家宝は消えちゃった! もはやアルヴィースの歴史が途絶えることは必然ですね! 私たち夜魔の繁栄を邪魔する者はいなくなる! うふふ! あはははははは!」


 アミカのものとは思えない邪悪さで、なのにアミカらしい純粋な笑い声だった。


 僕は泣いていた。

 自然に、目から涙がこぼれていた。

 アミカは、僕が小さな頃からずっとそばにいてくれた一番の理解者だと思っていた。父上より、母上より、ミリアよりも僕を理解し、支えてくれた。誰よりも信頼出来た、大切な人だった。


 だから――どうしても、信じたくなかった。


「……アミカ…………正気に、もど、って…………くれ……」


 消え入りそうな声だった。口からも血が溢れて、上手く喋ることが出来ない。それでも、彼女だけは助けたかった。元に戻ってほしかった。


 するとアミカは僕の前のでしゃがみこみ、優しい笑みを浮かべながら僕の頬を撫でた。


「お優しいリゼル様。私の大好きなリゼル様。せめて最後の時間に、すべてをお話してあげますね。アルヴィース家を襲った夜魔は――私ですよ」

「――っ!?」


 僕の全身を衝撃が走った。

 それは痛みよりも鋭く、僕の心を叩いた。


「そう、あの大広間で人間を皆殺しにしたのは私。リゼル様の大切なご家族を、お父様を、お母様を、ミリア様を、ご親戚を、知人も顔なじみもみ~んな、私が殺してやりました。うふふ、まとめてお掃除ですよ」

「うそ……だ……そ、んな……」

「ほ・ん・と・う・です♪ 私は他人の意識に自分を刷り込む《誘惑チャーム》の魔術が使えるんですよ。『アミカ』がこの屋敷に来ることを知った六年前、彼女の意識に入り込んでここに潜入しました。それから六年、私の存在に悟られないよう気を遣いながら、屋敷中の全員を《誘惑》するのには骨が折れましたよ~」

「チャーム…………六年……前、から……?」

「はい♪ あ、ミリア様をあえて逃がしたのは、リゼル様にとって一番守りたかった人の死を最初に見せるためです。前当主様に少しの猶予を与えたのは、リゼル様に家宝の隠し場所を伝えさせるためです。それがわからないと、こうやって家宝をぶっ壊すことが出来ませんからね。そして、私の想像通りにリゼル様は家宝の在処を聞き出し、勇気を出して試練に立ち向かった。私を連れてきてくれてありがとうございました! 信じていましたよ。リゼル様なら、きっと私を連れていってくれるって!」

「……うそだ…………うそ、だ……」

「それにしても、人間は本当に素敵ですねぇ。信頼した相手にはちゃんと心を開いてくれる。まさかアルヴィースの中に敵が潜んでいるとは思わなかったのでしょう。前当主様も、お母上も、ミリア様も、私がこの姿で暴れ回ったときはみーんなびっくりした顔をしていました。本当に長い時間をかけて《誘惑》し続けた甲斐がありました。ああ、全員をまとめて串刺しにした場面を見ていただきたかったです!」


 手を組んでキラキラと目を輝かせるアミカ。

 それから彼女は――「あっ」と何かに気付いたような声を上げてパンと手を合わせ、妖しい笑みを浮かべながら僕を見た。


「そうそう。リゼル様は“私”のことが好きなんですよね?」

「……っ……!?」

「うふふ、でも安心してください。リゼル様には《誘惑》が効いていないんですよ。あなたは生まれつきの強い魔力と精神力で私の魔術を跳ね返しました。そして――自分から“私”を受け入れてくれたんです。ああ、本当に嬉しかった。純粋な愛を知るのは、初めてだったからです。あなたの温かい心を知るたびに、私は身体がうずきました」


 アミカが近づいてくる。

 動けない僕の上に跨がり、僕の顔を撫でながら首筋、胸元に手を当ててきた。その熱い視線がじっと僕を見下ろしている。


「リゼル様。私もリゼル様のことが大好きですよ。だから今までのお礼も含めまして……最後に、と~っても気持ち良くしてあげますね。私は誘惑の夜魔ですから、命を貰う代わりに、最高の快楽を味合わせてあげられるんですよ……? ほぉら、ずっと私を犯したかったんですよね? 早くしないと死んでしまいますから、これが最後のチャンスですよ……」


 アミカはそういって上半身の服を脱ぎ、僕の前に裸体を晒した。


 僕は悟った。


“すべて”を、失ったのだと。


 大切な人たちも、大切な家も、大切な繋がりも、そして自分の心も――すべて。

 これが“絶望”なのだと知った。

 絶望にすべてが飲み込まれたとき、心を失うのだと知った。


 もう怒りはなかった。


 もう悲しくもなかった。


 ただ、絶望だけが僕の空虚な胸の中をいっぱいにしていた。



 ――ああ、そうか。



 すべてを失うと、世界はこんなにもクリアに見えるのか。


 

 右目が灼けるように熱い。


 頭に誰かの声が響いてきた。

 血が溢れ出す胸の奥で何かが蠢いていた。


 誰だ。

 熱い。

 熱い。

 熱い――!



「あらあら? リゼル様~? もう死んでしまうんですか? もったいないですよぅ! ほらほら、私と最後に気持ち良くなってから死にましょうよぅ」



 彼女カティエが甘えるような声で僕に抱きついてくる。


 僕は言った。



「――“退け”」


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