プロローグ ―茶屋の娘(中)―

 ――次に俺が目を開けたとき。

血なまぐさい場所で、俺は手足に枷をつけられていた。


「……酷い場所だ」


 思わず口からそんな言葉が漏れ出る。

 どれほどの時間が経ったかはわからないが、まず間違いなく外は夜になっているはずだ。

 そして、おそらくここは店の地下か何かだろう。小型の『魔力灯カンテラ』に照らされた石作りの空間はそれなりに広く、元々は店で使う食料などを保管していたのかもしれない。

 しかし今、俺の目に映っているのは手を繋いだまま事切れている二人の――おそらく若い女性だったもの。それだけではない。辺り一面には無数の人の死体や白骨が転がっており、鼻の曲がりそうな腐臭に包まれている。おかげで最悪な記憶が呼び起こされた。


 そして――俺の眼前では黒い服を切り裂かれた“妻”があられもない格好で張り付けにされている。

 彼女の身体中には拷問でもされたような生々しい傷跡が刻まれていた。その足元では、子どもが血塗れになって倒れている。ぴくりとも動くことはなかった。


 妻のすぐそばに立っていた『娘』がこちらを向く。

 その両手には、二本のナイフが握られていた。


「――あっ、ようやく起きたんですねお客さま!」


 前掛け姿の店員は、顔中に返り血を浴びたまま微笑む。


「ちょうど夜になりましたので、良いタイミングでした。時間潰しに痛めつけるのも飽きてしまったところなんだよなァ。さぁ、ご自分の妻と子どもが無惨に食い殺されていく様をそこで眺めていルガイイィィ!!!!」


 そう言うと、店員の身体が筋肉質に膨れあがっていき、頭部には一本の醜い角が生えた。肌の色はどす黒くなり、完全な化け物の様相だ。


「グ、フ、フ、フ、フ! これが本当の『ワタシ』だ! ワタシは夜魔。お前が忠告してくれたァ、恐ろしい夜魔なんだよオオオオオオ! この店員の身体はとっくにワタシが食い尽くして、擬態していたんだよ! ワタシは、食った相手の姿を模倣することが出来るからなァァァ!」


 もう先ほどの店員の面影はほとんどない。声すらひどく汚らしいものに変わってしまった。


「……擬態、か」


 俺がぼそりとつぶやくと、夜魔は下卑た笑い声を上げてから言う。


「若い女は本当にウマイからなァ……! 気に入ったのは夜までここに保管して、食ってやることにしてるんだ! 以前に来たそこの双子もウマかったなァ……そして……グフフ!」


 夜魔は自分の胸元をバンと叩いて笑った。


「この孫娘はとうに『ワタシ』になっているというのに、あの愚かな祖母はそれにも気付かず可愛がってくれたぞ! 一緒に店を頑張ろうね、と! そのまま愛した孫に殺された祖母の哀れさよ! あの絶望の顔を! お前にも見せてやりたかったくらいだァ!」

「…………」

「そして! そんな真実も知らずに孫娘が一人で頑張っているなどという話につられてやってくる馬鹿な旅人たち! 周りを見てみろ! 男と年寄りはすぐに全員殺してやったが、気に入った女たちは食ってやった! これが馬鹿な人間どもの末路だ! 人間は我々夜魔に弄ばれ、食い尽くされる生き物なんだよォ!」

「…………」

「ヒヒヒヒ! それにしても今日はツイてるなぁ。こぉんな上玉の貴族を食べられるなんて僥倖でしかない! さぁ、お前の美しい妻と子どもを食い尽くしてやろう……! お前はどんな顔をするんだ? 『ワタシ』は、人の絶望が大好きなんだよなァァァ! ウヒヒヒヒ!」


 気色の悪い声で笑う夜魔。

 夜魔は鋭く尖った歯で、まるで吸血鬼のように妻の首筋に噛みつこうとするシーンをわざと俺に見せつけてくる。


 ――なるほど。


 ただの模倣だったか。

 ははっ。

 馬鹿馬鹿しい。


「やめておけ」


 俺の言葉と嘲笑に、夜魔が動きを止めてこちらを見た。


「そんなモノを食ったら腹を壊すぞ。そもそもお前ごときには不可能だ。身の丈に合った生き方をしておくべきだったな」


 夜魔が眉間に皺を寄せる。

 ただの旅行中の貴族が――妻と子を殺されかけている無力な夫がこういう反応をするとは思っていなかったのだろう。夜魔は不可解そうに目を細めた。


 俺はさらに続けて言う。


「お前のような夜魔を俺は一人知っている。ただ擬態するだけの馬鹿ならばあれよりずっとマシだな。相手が人間でないのなら――躊躇なく殺せる」

「……殺す?」


 夜魔が目を見張る。

 妻の元から離れて、俺へと飛びかかってきた。そしてどす黒い血で染まった手で俺の首を絞めてくる。


「ウヒ、ウヒヒヒ! 殺すだと? 貴様がワタシを? 女の外見に騙され、毒で動けなくなる程度の、ただの家畜の人間が? ウヒヒヒヒヒ! とんだ愚か者がやってきたものだなァ! それとも恐怖で頭がおかしくなってしまったか? 夜魔は人間ごときには殺せんぞ? いいぞ! 殺せるものなら殺してみろォォォォォ!!」


 夜魔は俺の顔に自分の顔を近づけて、眼前でニンマリと笑った。


「ヒヒヒヒ! よし、殺す前にせめてもの情けとしてワタシの名前くらい教えてやろう。まず名乗り合うのが貴族の礼儀というものなんだろう? ワタシは――」

「ゴミの名を聞く趣味はない」


 俺は言った。


「“異名”さえ持たない雑魚なんだろう? はしゃぐなクズめ」


 その返答を聞いて。

 夜魔の目が血走った。



「――ただの人間ごときが、今すぐ死ねエエエエエエエエエエエエエエ!!!!」



 夜魔の太い腕に力が込められる瞬間。

 俺の右目が熱くなるほどの魔力を放つ。



 そして――夜魔の首にピンと張った一本の黒い糸が当てられた。

 


 夜魔がハッと大きく目を見開いた。


 ゆっくりと眼球だけを横に動かす夜魔の耳元で――黒い髪の女がささやく。




「――奇遇ですね。私も絶望の味が大好きなんです」




 夜魔の目が彼女を捉えようとした次の瞬間。


 跳ね飛んだ夜魔の首が、重い音を立てて地下室の地面に転がった。

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