第2話 大学日本拳法における2年生の位置

 2年生というところがポイントなのです。


 いったい、400年前、宮本武蔵によってまとめ上げられた二天一流という剣法は、この21世紀、大学日本拳法という世界でその形而上的な部分(本質)を見ることができるのですが、武蔵は二天一流のバイブルともいえる「五輪書」をこういう構成にしました。


 ① 地の巻

 ② 水の巻

 ③ 火の巻

 ④ 風の巻

 ⑤ 空の巻


 地の巻とは二天一流の基本理論(ポリシー)であり、水の巻とは自然の原理に即しての戦い方(自分の体を自然の理に即した、無理のない動きができるようにする)であり、火の巻とは大自然の理ではなく、人間の心に即した戦い方。

 風の巻とは他の流派との比較・検証・研究であり、

 空の巻とは、これら自分で獲得した知識や経験や運動能力を、現実世界の中で遺憾なく発揮するための心の持ち方が述べられています。


 大学日本拳法ではこうなります。

 ① 地の巻 1年生 日本拳法の基本を学ぶ(理論と演習)

 ② 水の巻 2年生 物理的・生理的な自然の理に即した身体の動きを知る

 ③ 火の巻 3年生 人の感情、人情の機微・心の裏表によって、敵に欺されないで、逆に敵の裏をかく戦いを身につける

 ④ 風の巻 3〜4年生 他(人)の研究をすることで自分の存在をより明確にする 

 ⑤ 空の巻 4年生 ①〜④をすべて飲み込みながらも、意識することなくそれらを有機的につなげて発揮できる空の心に至る


 前置きが長くなりましたが、今回の大会で私は、女子の2年生(たち)の戦いに、武蔵「五輪書」における水の巻を見たというわけです。

 つまり、彼女たちは3・4年生のように、たいの先・躰々たいたいの先のような高度な技術、或いは相手の裏をかくような奇抜な技巧などない。2分間のあいだ自分の肉体的な力を存分に発揮し、ただただ燃えさかる火の玉のようになって敵のふところへ飛び込んでいく。

 ある2年生などは、ふつう自分の肩幅(くらい)ということになっている足の縦方向のスタンスがかなり長い。それは前方への踏み込み(飛び込み)に速さと強さを求めるが故なのでしょう。

 敵の攻撃に対して自由自在に動ける足の幅が肩幅なのですが、彼女の場合、そんな守りなど捨てて、完全なる突撃(直進)を優先した体勢になっている。

 人間の姿形でなく一個の情念のかたまり、人間の形をした火の玉が激しく動き回っているようで、まさに2年生らしいストレートで激しい、防御など気にしない攻撃中心の拳法です。


 また、別の2年生は150センチくらいの「おチビさん」なのに、自分より20センチも背の高い相手に向かって、面回し蹴りなんかを繰り出している。 当然ながら、自分の軸足がついていけず、スリップして転けてしまい、観客からは失笑が起こるのですが、私はその牛若丸のようなファイティング・スピリッツに感心するばかり。

 米映画「マトリックス」1999年で、覚醒したネオという人間にとって、戦う相手は人間の姿をしていない。人間の形をしたメラメラ燃えさかる炎の塊に見える。

 ネオと同じことを、今回私は体験することができたというわけです。


 覚醒する(悟りを開く)とは禅坊主の専売特許であるかのように思われていますが、私のような修行の足りない凡人でも、こうして姿形にとらわれない人間の本性を見ることができる、というのは大発見でした。

 悟りとは、修行を積み重ねる人間が自分の力で手に入れるものとは限らない。自分の見る対象(人間)が一心不乱になり、その魂を打ち込んでいる姿に自分が引き寄せられる。悟りとは当人の努力によるものとは限らず、その人が見る(接する)存在(人間)がその人に悟らせるということもある、ということで、まさにドイツの哲学者カントの唱えた「コペルニクス的転回」と言えるでしょう。


 コペルニクスは「天体ではなく地球が回っている」と唱えましたが、カントは形而上学においても「私たちが見ている対象物とは、その実体を見ているのではなく、私たちが見ているのは私たちが自分の感性や悟性や知性によって勝手に作り上げた幻想である」と主張し、物事を逆に見る(視点を大転換する)ことで、新しい世界を切り開く道を示しました。(そんなカントの革新的な発想が、巡り巡ってドイツ人の発明になるジェット機やロケット、そして空飛ぶ円盤に行き着いたのですから、まんざら形而上学というものはバカにできません。)


 私が今大会で得た「悟り」とは、彼女たちが試合をしていたあいだだけのものですから、本来の「悟り」とは違うのかもしれません。しかし、それでも私は、人間の姿形ではなくその本質を見るという幸せを味わうことができたわけです。

 日本拳法の試合で、2分間、火の玉のようになって突撃を繰り返す彼女たちの「踊り」とは、その体型も顔も見えない、能と同じく抽象化された世界の中でこそ見ることのできた「悟りへの入り口」とも言える姿だったのです。


 もしもこれが、女性としての体型だの美人だのという、観る側の感情が入り込む姿となれば、そちらの方に気を取られてしまい、悟りなど遠くへ行ってしまう。

 面をつけているから顔が見えない、防具を着用しているから体型もわからない。

 3・4年生ではないから、高度な技術や技巧もまだそれほど身につけていない。

 ただただ、自分のもつ肉体的・精神的な運動能力を最大限に発揮させようと「苦闘する姿」に、日本人の持つ元精神(自分と戦う心)を見ることができた。

 彼女たちは敵をどうこうしようというよりも、なんとか自分の身体を、その場・その間合いとタイミングの中で最も効果的に発揮できるよう、(自分自身と)悪戦苦闘しているように見えました。


 よく、スポーツ選手が「オリンピックで優勝して震災に遭われた方たちを元気づけたい」なんてやっていますが、日本拳法の女子2年生の試合(戦う姿)にこそ、日本文化の大きな所産である能に通じる、無音で無機質な姿でありながら、そこにある魂が激しく躍動するという「日本人の内なる元気」を感じることができるでしょう。

 縄文時代より続く日本人ならではともいえる、静かで奥深いパワーを見て、自分のなかにある同じ日本人としてのパワーに気づくことができるのです。


 注:無音

 能の音楽はメロディーではなくリズムを取るための、いわば竹の節のようなもの。

 西洋的音楽のように、観客の心を高揚させたり誘導したり、更には幻想を見せ、音楽自体が独立して鑑賞されるくらいのメロディーではなく、あくまで拍子によって舞台上の役者の演じる情念を際立たせようとする。日本拳法でも使われる「拍子」が第三者から与えられることで、演者と観客という日本人同士の心が繋がるのです。

 その意味では、西洋のミュージカルなどに比べ、能のそれは「無音・無言」とも言えるくらい、切り詰められたシンプルな劇であり、その故に、演じる者も観る者も同じ日本人(としての感性・本性を持つ人)でなければ、能は理解できないのです。


 何百億円も金をかけて行われるオリンピックで、優勝だ、負けて悔しいなんて大騒ぎせずとも、東京は大森あたり、しょぼい町の体育館で無料で見れる日本拳法の生(なま)の試合の方が、よほど大きな感動をダイレクトに受けることができる。

 私が今回、鹿児島から北海道まで、休みなくバスを乗り継いで行くくらい、この歳にはキツい旅程をこなせたのも、彼女たちが元気一杯、敵に向かって飛び込む姿をその都度思い出すことができたから。 

 (フリをしているだけで心のこもっていない、つまり、にせもので空虚な記憶に比べ、心から感動した真実の思い出とは、たとえそれが一瞬の出来事であったとしても、永遠に心の記憶に残る。冥土の旅における楽しい駅弁(お供)ともなるでしょう。)

 ステーキや焼き肉、マムシドリンクや栄養ドリンク(なんて飲んだことはありませんが)なんぞより、火の玉のような精神が炸裂する姿を見るという「精神的な栄養剤」の方が、よほど強力で長持ちするということを、今回の大会で知った次第です。



 2019年5月18日

 平栗雅人

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る