2019年 日本拳法 東日本大学リーグ戦 観戦記 V1.1
@MasatoHiraguri
第1話 はじめに
日本の伝統的な演劇の一つである能とは、複雑なドラマの展開ではなく、舞台の上ににじみ出る「抽象化された情念」を楽しむ世界といえるでしょう。
今回わたしは、日本拳法という、能とは全く正反対と言えるほど、動きが速くダイナミックで力強い世界で、極度に抽象化された「戦う心」を鑑賞することができた。
今大会に於ける女子の、しかも公式戦初出場と思われる2年生の元気いっぱいの試合を見て、大いに楽しむことができたのです。
日本では殴り合いのケンカのことを「踊り」と呼ぶ人(地域)があるようです。
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」では、主人公である秋山真之の中学生時代のケンカを評して、同級生の正岡子規が「見てくれもせぬ踊りかな」と詠っています。岡山でもケンカのことを踊りと呼ぶようです(小説「けんかえれじい」)。
日本拳法とは殴り合いのケンカをそのまま抽象化したもの(と私は考えています)。そして、野球やサッカーなどに比べれば極めて狭い試合場(舞台)の中で、しかも能面のような面を着用して自分を表現する「踊り」ともいえます。日本拳法の試合場というのはちょうど能の舞台と同じくらいの大きさです。
面ばかりでなく、剣道の胴のような防具やボクシングのグローブを着用している姿は、まるでアメリカ映画「ロボコップ」。それら衣装(防具)は、選手の顔や体型を殺して一個の無機質な物体に変えてしまう。
どの選手も目に見える姿形(すがたかたち)はほぼ同じで、無個性・無機質な2つの物体が狭い舞台の上で飛んだり跳ねたりしているようだ。
しかし、これを「若以色見我 以音聲求我 是人行邪道 不能見如來」という境地から見れば、そこには戦う人間の強烈な情念が見える。
<注釈>
「若以色見我 以音聲求我 是人行邪道 不能見如來」
「にゃくいしきけんが いおんじょうぐが ぜえにんぎょうじゃどう ふうのうけんにょらい」
「姿形をもって我を見 音や声を以て我を知らんとするならば 汝あやまてり 如来(真実)を見ること能わざりき → 人や物の姿形ではなく、その心・魂を見よ 」
「金剛経」という、禅宗(臨済宗)における「般若心経」と並びよく読まれる経典の一節です。
今大会で、数十メートル離れた観客席から見る彼女たちの試合は、パンチが当たる音や攻撃する瞬間の声(気合い)はほとんど聞こえない。ほぼ無音の世界のなかで、戦う2者が踊っているかのようですが、そこにわたしは「戦う」という、強い情念を見る(感じる)ことができました。
3・4年生という上級生(熟練者)が持つパワーや技術的な巧、試合の流れのなかで行われる駆け引きの妙といった「ドラマチックな展開」がそぎ落とされた、素のままの身体の動き、むき出しの若々しく躍動する心。 それはまさに日本文化における一つの典型ともいえる能の世界を彷彿とさせる「踊り」といえるでしょう。
ここに改めて、「戦うという情念のみを見て楽しむ日本拳法」というものを、知ることができたのです。
2019年5月18日
平栗雅人
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