第七十話 阿蘇へ

 たった一人山門を出たククリは、夕日を背に馬を走らせていた。

 供の者は誰もいない。視力を失った人間にとっては無謀とも思える旅だが、馬に意識を集中すれば、ククリはすぐに馬自身となって野を駈ける事が出来た。


 時はもう無い。剣の巫女であるクシナダが予言したように、山門国の統治を認めたはずの倭国大王帥鳴は、各地から兵を集結させつつあるようだ。

今、倭国でも熊襲でもあり、またそのどちらでも無いあの地と、そこで暮らす行き場のない人々を守れるのは、もはや自分しかいないのだ。そう心が逸りながらも、ククリの五体は自然の大気を敏感に感じ取り、心の慰めとしていた。


 湿気の多い夏の空気の匂い、茂る草木の香りと感触。あちこちで聞こえる鳥や獣たちの鳴き声。風の音。かつてこの道を通った時、果たして自分はそれらに気がつく事が出来たのだろうか。あの時傍らにいてくれた偉大な熊襲の姫を思い浮かべながら、ククリは阿蘇へと急いだ。


 だがククリが阿蘇の麓あたりにつくと、馬が嘶いて取り乱し、すぐに異変に気づいた。何か匂う。

 すぐにそれが毒だと気づくと、ククリは予め用意していた布を湿らせて口元を覆った。仕方なく安全な場所まで少し戻り、ククリは山を見上げた。


 やはり、阿蘇の神は自分を拒んでいるのだろうか。また、同じような目に遭うのだろうか。そう思うと、ククリはあの時の事が思い出されて鳥肌が立ち、呼吸が乱れた。


 だが、それでも自分は阿蘇へと登らなければならない。正確には、阿蘇のいずこかから、あの神のいる場所へと行かなくてはならないのだ。


 そもそも阿蘇というのは一つの山があるわけではなく、山々の総称である。前回訪れた時は、あの場所へ行くべきだと霊力が告げていたからあの場所に行ったが、あそこが唯一という場所では無い。言ってみれば、阿蘇と呼ばれる山岳地帯にはあの『異界』へと通じる地点、神と接触できる場所がいくつもあるはずだった。とりあえず、毒の事を考えればどうやら前回と同じ場所に行くのは無理のようである。ならば異界へ入れる他の場所を、探さなくては鳴らない。


 夕日が沈み、本来であれば火をおこさなければならない時間になっても、ククリは馬上でただ沈黙していた。月も無い真の闇夜に、薄青白い光が蛍火のように灯ったのは、突然こぬか雨が降ってきたその時である。


 ククリは前方のその光を、自分の視覚で感じた。その源の輪郭を思い描き、あっと声に出して驚いた。それは、かつてククリが山門の地で追い払った鹿の姿をした小さな神である。立派な角が一際輝いているのが分かる。


 ククリはとっさに背負った鏡に手をやる。もしかの神が怒って向かってきたならば、今の巫女の力を失ったククリに対抗するすべは、豫国より持ってきたこの鏡よりほかない。


 だが、息をするのも忘れて構えているククリに対して、鹿の姿をした神は、特に怒りを表すでも無く静々とこちらに寄ってきた。ククリの乗っている馬の前まで来ると、しばらく見つめた後、鹿は振り返って闇夜の森の中に入っていく。

「ついてこいと、言うのか・・・」

ククリは見知らぬ不思議な力に導かれるのを感じ、慌てて馬を下りると、鹿の後を追いかけ自らも闇の中へと入っていった。

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