第六十九話 真なる大乱

 汗ばむ季節の中、閉めきっていては息も出来ぬと入り口まで這いながら近づくと、寝ぼけ眼のワカタの耳と鼻に、普段より激しい馬の嘶きと匂いが流こんできた。慌てて外に出て辺りを見回す。だが、自分が想像した兵馬の大軍は無く、ワカタはすぐに悟って熱い血が巡るのを感じながら、息も吐かずに彼方を見た。


 まさに今、馬の大群が近くまで来ているのだ。だから王都の馬がそれを敏感に察知し、興奮しているに違いない。


 帰還した大王の命に従い、すでに出雲、そして半島からそれぞれの地で鍛え抜かれた精鋭が、この筑紫島へと向かってきている。


 合流先はこの王都では無かった。山門国へと続く平野である。出雲と半島の大軍を一斉に駐留させる能力は、この王都にも無いため、それぞれの最も近い副都を経由して、山門国の手前の平野で合流する事になっていた。


 ワカタも、三日後には大王の近衛長として王都を出立しなければならない。今度ばかりは仮病も通じまい。


 そして、今回のこの前代未聞の大戦で、自分に与えられた使命を思い出すと、ワカタは夏の暑さの中震え上がった。


 すると、まったく気配の感じていなかった背後から、今や憎らしいとすら感じるようになった部下の声がした。


「ワカタ様、またそんなだらしない格好とおじけづいた顔をして。もしかして、まだ迷っているんですか」


 顔を横にやると、妙に冷たい目顔のカラオがそこにいた。


「げっ。お、お前、いつの間に家の中にいたんだよ。気配を消して背後に回り込むとか、本当にやめろよな」


 しかしそれにしても色々と特技の多い奴だと、ワカタは心の中で感心した。そして、カラオの光る目を横目で見ながら腕を組み、自分はもう戻れぬのだと己に言い聞かせた。


「大王は今回の戦を大ごとにする気は無いでしょうね」

「・・・前にもお前や、長老たち、それに出雲の父上も言っていたな。だが、お前は感じないか。今この筑紫に、倭国に出雲と半島の大軍が押し寄せてきているんだぞ」

「そうですよ。まさに前代未聞の大軍ですよ。わくわくしますね。でも戦いに来ているんじゃありません。将軍たちは分かっているはずです。この招集は、戦いのためじゃないと」


 ワカタはふんっと、鼻息を荒くした。


「じゃあ、何のためだって言うんだよ。山門のハヤヒは倭国の王子を僭称しているとして、養母のククリとともに征伐するって言う筋書きだろ? そのための兵じゃ無いのか。」

「彼らは、大王の威光を見せられるために、ここに集められているんですよ」


 ワカタはますます分からなくなって、きびすを返すとその場で胡座をかいた。ワカタもそれに続く。


「いいですか。今、倭国は向かうところ敵無し。出雲と半島の両方に大拠点を築きました。けれどそれぞれが鉄をつくれるし、出雲の帥響様、半島の帥大様とそれに付き従う兵たちはもう何年も王都に帰ってきていません。すると、彼らの中で、王都に対する忠誠心も低下してくるんですよ」

「おいおい・・・待てよ。そんな事になったら」

「そうです、帥大様が半島で、帥響様が出雲でそれぞれに独立を宣言するか、あるいは倭国に攻め入ってくるという事態があり得てくるわけです。そんな事になれば一大事ですよね。そうなれば、特に人質としての役割もあるワカタ様なんかは、すぐに殺されちゃいますし」


 あの祖父ならば容赦はすまい。ワカタはその様を想像して、ぶるぶると顎を揺らして震えだした。


「とまあ、そうならないように、今回大王は各地の兵を集めて、自分の権威を示そうという意図があるんですよ。山門にしたって、これから集結する大軍を前にして、戦おうという気にはなれないでしょう。あそこは、王都奪還後に放置されて、残ったのは病人や身分の低い者ばかり。倭国と熊襲の混血児たちもいるようですが、まだ戦える年齢では無いですからね」

「待てよ。ハヤヒは熊襲王の甥で、熊襲王子でもあるんだろう。だとしたら、ハヤヒが倭国の大王に征伐されるのを熊襲が黙ってみているわけがあるまい。これは、倭国と熊襲の大戦になるんじゃないのか」


 カラオはため息をつくと、この人はなぜこんなに頭が悪いのだろうと、指で床を叩きながら、気の毒そうに目をやった。


「・・・だから、すべて演技なんですよ。や・ら・せ。大王はハヤヒを征伐できればそれに超した事は無いと思っているでしょうが、目的はあくまで集結した各地の兵に倭国大王の威光を知らしめる事です。だから、ハヤヒと熊襲王がよほどの馬鹿では無い限り、集結した倭国の兵とそれを指揮する大王を見れば、熊襲に逃げ込んで、それでとりあえずは解散でしょう」

「じゃあ、何か。今回のこの騒動は、言ってもみれば父上と帥大殿とその配下の者たちに、釘をさすためものなのか」


「そういうことです。でも、大王がハヤヒ殿を警戒しているのは本当ですからね。大王にとって一番良いのは、大軍を見てハヤヒが降伏し、そして処刑。熊襲は大戦を避けて沈黙という流れでしょう。とにかく、出雲と半島の大軍は、何もしない可能性が高い。そう、あなたさえ動かなければ」


 カラオは一際鋭い目顔でワカタに迫ってきた。ワカタは立ち上がって右へ左へとうろうろした。


「わ、分かっている。分かっているさ。倭国を救うためにも、父上が倭国大王になるためにも、俺が大王を暗殺しなくちゃならないんだろ。この戦の最中に・・・。しかし・・・ほんとうにそんな事が出来るんだろうか」


 ワカタはどもりながら言うと、帰還した大王の姿を思い出した。最も格式の高い装束に身を包み、王宮へと帰ってきた大王は、今までとはまるで別人のような雰囲気だった。もちろん顔立ちは変わっていないし、皮膚や髪の色も以前と同じで、別に角が生えたというわけでも無い。容貌で言えば、太師の張政の方がよっぽど異形である。だが、数日までとは迫力というか気迫というか、とにかくそれらが全く違っている。まさに御稜威。まともに見るのも畏れ多いような気持ちにさせる何かがあったのだ。まるで、神か何かが乗り移ったかのような。


 一体この数日の間に大王になにがあったのかは分からないが、これは尋常な事では無かった。


 そんな、以前にも増して自然と畏敬の念を覚える相手を、まして自分の祖父を、しいする事など出来るのだろうか。

 それにこうして大軍が集結しつつある今だからこそ分かる。そんな中、その中心とも言うべき大王が倒れれば、間違いなく大きな混乱が起きる。そのまま、出雲勢力と半島勢力との戦いが、その場で行われかねない。そうなれば。


「また倭国大乱が起こるぞ・・・」

 あれこれ考えていると、ワカタがまたぬっと近づいて、神妙な顔で叱咤した。

「弱気にならないで下さいよ。もっと大きな視点で見て下さい。出雲と半島への侵攻、部族では無く世代間で対立する倭国、山門、熊襲。身分の流動。倭国大乱は終わってなんていなかった。今、この時も倭国は大乱のまっただ中なんですから」

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