第七十一話 名前を忘れた女神

 辺りが木々の影で完全な暗闇になると、目の前の鹿の輝きは途端に消えた。

 その代わり自分が、というよりも自分が立っている場所が突然落下するような感覚を感じ、その勢いが止まった後自分が立っているのは、いつか自分が立っていたあの湖面のような場所だった。自分は異界に入ったのだ。


 だがあの時と違うのは、湖面のあちこちには蓮の花が輝きながら咲き乱れ、水面の奥には金色に輝く小さな魚たちが悠然と泳いでいるところである。そして、それらの光景を、今のククリは自らの視覚で『はっきりと』見る事が出来ている。

ここは一体どこなのか、自分の身体に何が起こったのかと頭の中で答えを探しているうちに、あの親しみのある声は、ククリに呼びかけた。


「しばらくぶりだな。人の子よ」


 少し気怠げな声の主は、ククリの娘時代の姿をしていた。


「お久しぶりです。阿蘇の神よ」


 若く美しく、霊力もあったかつての自分の姿に少しの胸の痛みを覚えながらも、ククリは静かに跪いた。水面の冷気が、膝に広がる。


「うむ。待ちくたびれた」


 意外な言葉に顔を上げる。


「私を待っていた」

「そう、お前を待っていた。お前は今でも、私の力が欲しいか」

「・・・・はい」

「それはなぜ故に?」


 汗まみれの掌を握りしめ、ククリは胸を張って答えた。


「大切な者を守るため。過去と現在を守り、未来を作る力が欲しいのです」

「そうか・・・うむ。いいだろう」

 あまりのあっけのなさに、ククリは顎を開いて言葉を失いかけた。

「・・・ほ、本当ですか。私は以前・・・」

「お前は、以前のお前とは違う。言っただろう。私は見ている、聞いている。そして知っている。お前があれからどのようにしていたか、お前が今何を望んでいるか、全て知っている。・・・お前ならば、まあ良いだろう」


 阿蘇の神は少し悲しげに顔をうつむけ、目を閉じた。


「滅びる事の無い、無窮の国か・・・。ククリよ、私はお前と出会ってから多くの事を思い出したよ」


 いくつもの水紋を広げ、沈まぬ水面を渡って近くの蓮の花までたどり着くと、神は屈んで花びらに手をやった。すると辺りの蓮もそれと呼応するように輝きだし、暗黒だった空もうっすらと蓮色に染まる。


「私には名があった。遙か昔、この聖なる島々に多くの人々が暮らしていた時の事だ。着るものや住むところは、今の人々とは違う全く粗末なものだったけれど、今よりも神々を崇敬し、自然と共に生き、人々は水のように全てを循環させて栄えていた。私は彼らを守り、彼らは私を祀り、本当に、幸せな時だった」


 一体どれほどの時を遡っているのか、阿蘇の神は息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐いた。


「けれど、そんな人々の暮らしは一瞬で滅びてしまった。ごらん」


 阿蘇の神が右手をかざすと、泳ぐ金の魚のうちの一匹が輝きだし、水面に何かが映りはじめた。それはどうやら、島の図形のようである。その形はどこかで見たような気もする。それは一体どこでだっただろうか。


「これは、この筑紫島を空から見たもの。鳥となれるお前ならば覚えがあろう。あそこを見るが良い」


 言って神は、筑紫島の南の海原を指さした。


「あれは・・・」


「あの海の底に、凄まじい力を持った火山が眠っている。ある日、その火山が噴火した。お前には想像もつくまいよ。その噴火のせいで、永きにわたって築かれてきたこの地の人々と暮らしは一瞬で滅びてしまったのだ。小さき神々も、そしてこの私も抗ったがなすすべが無かった。積み上げられてきた人々の意志、精神、生活、鳥や獣、草や木、全てが失われた。あの恐ろしい一日が、今でも忘れられぬ。その時の絶望から、雨が大地にしみこむように、私は決して天の光の入らぬこの阿蘇の地下に閉じて籠もったのだ。自らの名を忘れ去るほどに」


「この地にそんな歴史が・・・。大地が静まった後、大陸から豫国、倭国、熊襲の祖先がやってきた・・・しかしどうして今、そのような話を」


「お前が、なぜ自分が私に認められたのかと疑問に思っていたからだ。いや、それもあるが、この古き神の昔語りを、ここで起きた悲劇を聞いてほしかったのかもしれない。ククリよ。この世は虚しい。人々が真心と情熱を込めて大切に育ててあげてきたものさえも、人は自ら滅ぼす。あるいは、どれほどの楽土を築こうと、人知の及ばぬ突然の不幸が襲って、跡形も無く奪われてしまう。そんな時の絶望を私は経験し、何度も見てきた。だから、私の力を欲するお前から、私は多くを奪った。霊力を奪い、身分を奪い、若さと美しさを奪い、目的を奪い、人の裏切りと大陸の地獄も見せた。だが、お前は決して絶望をしなかった。歩みを止めまかった」


「よく分かりません・・・それは、私だけでは無く、ハヤヒやサラ婆やみんなが私を支え、導いてくれたからです」


「それは全て、お前の生き様が引き寄せたもの。前に言っただろう。人の意思の力は、もはや神の与えた運命に影響を与える。お前は自分の意志と行動で、切り開いたのだ。誇るがよい。さあ、豫国より持ちし鏡を出せ。これを依り代としてお前に、『我ら』の力を授けよう」


 ククリが聖なる二頭の獣が刻まれた鏡を捧げ出すと、阿蘇の神は白い両手で鏡面を撫でるように触れた。それはまるで小さな舞のようでもあった。

鏡はククリの手を離れ、ゆっくりと宙に浮き、金色に輝き出す。するとその光を目掛けて、足下で揺らいでいた魚が九匹、一斉に驚くほど高く跳びはねたかと思うと、宙で鬣と角を持った巨大な蛇の姿に変化し、一匹ずつ光とともに鏡面の中へと入っていった。


「これで良い。さあ、ククリ。今一度鏡を見よ」

 今、山門の国の前には、倭国の大軍が押し寄せている。これは天を祀って地上の神となった倭国大王によるものだ。それは愚かな錯覚だが、ここから破滅がはじまる」


「山門の国の破滅ですか」

「いいや、倭国、熊襲、出雲、豫国、私の愛するこの聖なる島々の破滅だ。今、この神に見える未来は、この大軍の中で起こる混乱、それをきっかけに流れ込み激突する熊襲の軍勢。その結果弱体化し、各地を治められなくなった倭国とそこに侵略してくる大陸の大国。そして欲の結果滅びてしまう豫国」

「倭国と豫国が」


「お前は信じられないだろう。だが、一つのほんの小さなきっかけで、滅亡の連鎖というものは起こってしまう。避けられぬ悲劇となってしまう。だが、たとえ全ての悲劇が起こったとしても、お前は諦めるな。いや、決して諦めまい。まるでそれが本能であるかのように、どんな事をしても生き抜き、人々を導こうとするだろう。それこそが永遠へと続く灯ぞ。私はそんなお前を見てきた。だからこそ、この地を託せる。さあ、ククリよ、奇しくも天と地と人を結ぶ名を持つ者よ。この地に、無窮の国を築くが良い」


 輝く神と鏡を澄んだ目で見つめながら、ククリは呟いた。

「そんな幻のような国を、私がつくれるでしょうか」

「つくれ。これは神勅である。古き我が名、セオリツの名の下に、ここに神勅を下す」


 古き水の神は、まるで娘を抱きしめるようにしてそう言った。


「君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」


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