第三十四話 虹色の勾玉

 夕暮れの中、ナルは小川に禊ぎに来ていた。

 本来であれば禊ぎは朝方に行うのが最上とされるが、イワナが凄い剣幕で行ってこいと命じるのである。

 出来るだけ人目についてはならぬと言われ、それぞれ別の場所で行うことになったのだった。


 晩秋の夕暮れは寂しく、その中で行う禊ぎはなんとも異様な感じがする。空には無数の烏がうるさく飛んでおり、どうも落ち着かなかった。


 それでも冷たい清らかな水で体を清めると、気分が少しはすっきりとした。

 結局イワナは、使者の袋の中身をナルに見せてはくれなかった。どれほど年月が経って打ち解けようと、あの人に逆らうことなど出来はしないのだ。ただイワナの形相から、とんでもないものが袋にあったのだろうということは容易に推察できることだった。あのように凍り付き狼狽したイワナの顔は、数年前の夜、寝込んだイワナをサクヤが見舞いに来た時以来一度も見たことがない。あの時は、サクヤが生贄を求めてやってきたのだと思っていたのだ。


 それほど恐ろしいものが、あの袋の中にあったと言うことである。そしてそれは、すぐさま禊ぎが必要なほどに、汚れたものなのだ。


 髪をくくり直し、深刻な顔で衣服を整え腰紐を結ぶと、ナルは改めて小川を見た。

 昔このささやかな川に来たことを思い出す。かつて姉のククリと遊び、その姉が倭国へと行ってしまう時には自分は一体どうすればよいのかと悩んだ場所である。そしてその時、小川の流れを見て、人生の流れというものを感じたのだった。


 だが、実際の人生の流れとは、このように長閑な小川の流れではない。もっと激しくうねり、周りの全てを巻き込み、時には命すら奪うような激しいものだ。あの日から時を重ねた自分ならば、その事が分かるとナルは思った。


 そんな時、ふとナムチの顔が浮かんできた。思えば彼と語り合ったのも、この小川である。


 サクヤの宮に訪れる使者の話を聞いた時、『使者』という言葉に最初に思い浮かんだのが彼の顔だった。流れた歳月の分だけ、成長したナムチの顔を想像した。

 だが今までもそして今日も、訪れたのは彼ではなかった。その事に、ナルは不思議な落胆を感じていた。


 今、彼はどんな風に成長し、どんな顔をして、何をしているのだろうか。あの生意気そうな性格のまま、大人になっているのだろうか。


 あるいは、自分がそうであるように、人生の暗部を知って影を持った大人になっているのだろうか。それは想像がつかない。

 そこまで考えて、彼が神に仕える身ではないのだから、年齢からすれば妻を持ち子どもを持っていることも考えられるのだという事に気がついた。気がつくと同時に、少し胸が痛むのは何故だろう。


「胸がちっとも大きくならないな」


 突然女とは違う、普段効くはずのない低い声を聞いて、ナルはギョッとした。すぐにそれが男であり、侵入者であることに気がついて身構える。

 しかし、だんだんとこの声が実は自分が知る声が変化したものなのではないかと理解してさらに驚いた。

 声の方向に振り返ると、全身に淡い夕日を受けた青年が立っていた。まるで、そこにいるのが当たり前のように。

 少しだけ幼さの残る整った顔立ちと過去の面影は驚くほど絶妙に共存されており、背が伸びていることなど気にすることもなく、彼が誰であるかと言うことは明白だった。


「ナムチ」


 ナルが名を呼ぶと、ナムチは陽だまりのようににこりと微笑んだ。


「久しぶりだな。元気だったか」


 まるで数年の時間の溝などないかのように、話しかけてくる。成長したナムチの顔は想像していたものとは少し違っていたが、何故か以前から良く知っていたもののような気もする。

 なぜだか分からない安堵感を覚えて、自然と顔が緩んだ。


「なんだ、俺に会えて嬉しいのか」


 相変わらずの生意気な口ぶりに、憎らしくもあるがあえて反論はしなかった。


「どうしてここに・・・」


 自分で口にしながら、ナルははっとして口を手で押さえた。以前、ナムチはミカドからの密命を受けるほどの使者だった。ならば、今日彼がここにいる理由は、サクヤやあの汚れた袋の中身と関係があるのではないかと思ったのである。

 そういったナルの心内と警戒を見透かしたように、ナムチは少し真顔になって言った。


「今日は使者として来たんじゃないよ。俺は何の命も受けていない。ここに来たのは俺の意思だ。そんなことより、寒いだろう。火を起こそうぜ」


 夕日は次第に弱くなり、空を段々と夕闇が覆い始めている。当たりには夜の冷気が立ちこめ、ナルはぶるっと震えた。着替えは済ませたものの、まだ髪も乾いていない。

 普通、寒い時期の禊ぎをするのならば近くに火を起こしてするのだが、着替えたらすぐに家に帰るつもりだったのでしていなかったのだ。ナムチは巫女たちが火を焚くのに長年使っている場所で手早く火を起こすと、適当な石を持ってきて座る台を作ってくれた。その手際が余りに良く、まるで自分が貴人のように大切にされているような錯覚を覚える。


「綺麗になったな」


 しばしの沈黙の後、炎の光に照らされたナルの顔を見ながら、ナムチは真顔で言った。いつものように冗談もからかいも含んでいない明快なひと言にナルは戸惑った。


「何を言うのよ」


「本当だよ。ククリ殿も美しかったけど、お前も負けないくらい綺麗になった」


「冗談言って。そうよ、単に髪がのびたからじゃない? 私、髪の艶は美しいっていつも言われるのよ」


「そうじゃないよ」


 言いながら、ナムチの体が近くなったような気がするのは気のせいだろうか。灯りの中、ナムチの体の線がはっきりと分かる。見慣れた女のものとはちがう、男の肉体である。今まで意識したことがなかったが、自分はやはり女であり、ナムチは男なのだ。

 ナルは気分が落ち着かなくなり、話題を変えた。


「今日はどうして、この里に来たの」


「ナルに会いに来たんだ」


「どうして」


「会いたかったから」

 

 もう既に日は暮れ、当たりは完全な闇になっていた。時折獣や鳥の声が聞こえるが、ナムチに真剣な目顔で見つめられるナルの耳にはとうてい届くはずがなかった。小川のせせらぎすら、どこか遠くに聞こえてくる。


「そんなに見つめないでよ・・・恥ずかしくなるじゃない」


 するとナムチは素直に視線を炎へと移した。だが、そうなればそれで物足りなく感じ、ナムチが憎らしく思ってしまうのは何故だろう。

 炎に照らされるナムチの横顔は、落ち着きのある大人の男の顔である。その事が、ナルは嬉しいような寂しいような分からない気持ちになった。


「・・この何年か、ナムチは何をしていたの」


「俺はずっとナルを見ていたよ。お前は俺のお気に入りだもの」


 ナルの中で、ナムチを憎らしく思う気持ちが強くなってきた。なんという歯の浮いた言葉を言うのだろう。自分は純粋に、この数年相手がどのように過ごしてきたのかを聞いたというのに、この厳重に出入りの禁止された里でいつもお前を見てきたただのとは。いや、ナムチは自分が知らないだけで、何度も密かに里を訪れていたということだろうか。ミカドは里の儀式を監視しているのだから、あり得ることである。


 一体、ミカドや王都とはどういったものなのだろうかとナルは思った。


「お前は、ずっとイワナ殿のもとで修行をして、生贄を廃止させようと動いてきたんだろう」


「本当に・・・よく知ってるのね」


「俺は、お前に警告しに来たんだ」

 

 ナムチは視線を再びナルに向けたが、そこには先ほどのように胸が熱くなるものではなく、心を不安にさせるような鋭さがあった。


 「今すぐ、この里から出るんだ。この里は、いやこの国は危ない。出来れば今すぐククリ殿を追って倭国へ行け!」

 

 一体何を言っているのだと、実際ナルはそう思いもし、口に出そうとした。しかし、相手の目顔は真剣そのものである。

 これは尋常ではないと、ナルも悟った。


「それは・・・サクヤ様の宮へ運ばれる袋と関係があるの?」


「そうだ」


「教えて。一体何が起こっているの。この里でも、色んな事がどんどん変わって行っているの」


 ナルは乞うようにして尋ねたが、ナムチは黙ったまま明快な答えをくれなかった。

 代わりに懐から何かを取りだした。

 それは首飾りのようで、今までナムチがしていたものである。白く輝くそれは、一体何なのか。


「これをお前にやる。これを持っていれば、俺も少しは安心なんだ。持っててくれ」


 渡された首飾りを見てみる。紐の部分はありふれた麻のものだが、先にあるのは不思議な形をした白く輝く宝玉のようなものだった。


 炎の灯りに照らしてもっとよく見ると、それはさらに虹色の輝きを帯び、これは白玉と同じ素材であることがある。これは白玉を加工して作った物なのだろうか。


 ただ、この不思議な形は何なのだろう。白玉は海の貝から捕れる貴重なもので、様々な形をしている。中でも最も貴重とされるのが満月のように丸い玉だが、これは輝きは白玉そのものでも、三日月のような形をしている。上部には紐を通す穴が空けられており、それが目のように映って何かの生き物を象ったもののようにも見える。


「勾玉というんだ。豫国ではあまり見られていないけど、倭国や出雲、巻向では魔除けみたいなお守りだ。普通は動物の牙や、翡翠を使うんだが、それは特別製さ。大事にしてくれよな」


 ナムチにいわれるまま、ナルは勾玉の首飾りを首にかけた。何か特別な力があるのかと思ったが、霊的なものは何も感じられない。ただ、やはり白玉の輝きの美しさは素晴らしく、身につけているだけで心が高揚し、まるで自分が幹部になったような気分にもなる。


「うん、やっぱりよく似合う。まるで星のようだ」


 まったく、どうしてこの男はいちいちそういう科白が自然と出てくるのだろう。

 しかし、とにかくこの首飾りが貴重な品であることは明白である。何かお返しをしなければならない。

 

 そこまで考えて、ナルは重大なことに気がついた。

 男からこのように美しい装飾品をもらう、それに返礼する、それはまるで求婚のやり取りではないか。巫女にとって男と情を交わすのは許されないことだが、こういう「しきたり」は儀式として学習している。


 年頃になると、普通は男女が歌や装飾品を交わしあい、お互いの気持ちを確認するのだ。ナムチはお守りだといったが、そういう気持ちも含まれているのだろうか。気持ちはどんどん落ち着かなくなってくる。


 しかしナルのそんな考えはすぐに吹き飛んだ。


 ナムチの表情は相変わらず深刻で、ナルが思ったような気配など微塵も感じられなかったのだ。むしろ本当に大きな危機が迫っており、その身の危険を心から心配しているようである。


「はあ、人生ってなんて激しいのかしら・・・」


「なんだ、いきなり」


「この里に来た娘はね、最初に器に入った水を飲まされるの。ただの湧き水なんだけど、一応毒の水という事になっていて、それで一度死んだという形になるのよ。つまり、俗世から離れる儀式のようなものね。巫女は、死者なのよ。それでも私はその時のことはよく覚えていないし、物心つい時にはここで暮らしていたから、ここで生きていくのが自然だと思っていたわ。姉がいて友達がいて、とても穏やかな日々と将来を思っていたの。でも、生きれば生きるほど、大きな問題が襲ってきて、人生は激しく変化していって、昔持っていたものなんてどんどん無くなっていく。今日、この小川で川の流れを見たり、あなたに倭国へ行けなんていわれると本当にそう思う・・・生きるのって厳しい」


 その言いようがよっぽどおかしかったのか、ナムチは吹き出して高らかに笑った。


「全く、俺が本気で心配してるって言う時に・・・。でも仕方ないさ。生きるっていうのはそういうことさ。痛くても、辛くても、それが生きてるって事だ。人生の一部なんだよ」

 ナルは知った風なことをと思ったが、生意気でも先ほどの厳しい表情よりよっぽど彼には似合っている。


「これ、ありがとう。大切にするわ」


 そう言って微笑んだ時、ナムチはナルの唇を塞いだ。

 頭上では満天の星々が輝いていたが、二人の目に相手しか映らなかった。


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