第十九話 再会
ナルは一切振り返らずに全力で駆けた。後からはパチパチとしいう木の枝を折りながら、自分を追ってくる音と複数の気配がある。
捕まれば殺される。そんな予感がナルの脳裏によぎる。
後の足音は次第に自分に近くなってきていた。月は厚い雲に覆われ前に灯り無く、もはや自分がどんな道を進んでいるのかまるで見当も付かない。顔にも手足にもいつの間にか傷が出来て痛む。それでもナルはとにかく走り続けた。
幻聴なのか、後からは太鼓や笛や鈴の音も聞こえてきていて、まるで死が自分にからかいながら迫ってくるような恐怖を感じる。
ああ、もう追いつかれる、そう思った瞬間、誰かがナルの右手を強く掴んだ。前に回り込まれたのかと声も出せずに血の気が引いたが、自分を掴んだ手はそのまま強く引いて逃げることを手助けしていた。
一瞬だけ固まった身体もすぐに動き出し、強く引っ張る力もあってさらに早く駆ける。一体誰だろうとナルは気になったが、この際どうでもよい。とにかく今は追ってから逃げなければ。
すると次の瞬間、音が一切聞こえなくなった。僅かに見えていた前方の輪郭も一切見えなくなり、まるで大きな洞窟にでも入ったかのようである。だが、洞窟であれば響くはずの自分の足音も聞こえない。全ての、本当に一切の音が消えて無くなり、確かなものは地を蹴る足の感覚と、右手を引く何者かの熱い手の感覚だけになっていた。
恐怖を感じたが、不思議と足は止まらず駆けている。
しばらく駆けていくと、またパッと音が聞こえ始めた。まさに洞窟から出たかのように。
先ほどまであった暑い雪雲は無くなっており、天空には無数の星々が煌めいている。その僅かな光を確認したように、右手を握っていた手が離された。その方向に顔をやると、そこにはいつか見た少年の顔があった。
「やあ、久しぶり。元気にしていたかい。それにしても危ないところだったな」
「ナムチ・・・・どうしてここに」
ナルの驚いた顔を確認すると、ナムチは満足そうににやりとした。その顔つきは、およそ一年前に見たものと全く変わっていない。
それほど親しいわけでも付き合いがあるわけでもないが、今のナルにとって彼との再会はどこか懐かしく感じるものあり、ほんの少し心を和ませた。
「俺は今回もミカドのお使いさ」
「ミカドの使い?」
「ああ、巫女団ではどうせサクヤ様くらいしか知らないと思うけど、毎年年送りと年迎えの日には、王都から使いが送られているんだ。言ってみれば監視だよ。年送りと年迎えは、豫国全体にとって最重要の儀式だ。それがちゃんと行われているのか、確認のための使者が毎年おくられてくる。もちろん、春迎えでもないこの日に外部の人間が里に入り事なんて許されるわけもないから、誰にも見つからず密かにやってきて、確認して帰るんだけどね」
ナムチは少しも息が切れてはおらず、ごく簡単に衣服を整えるとここに至る経緯を割とぺらぺらと喋り続けた。
「俺も、年送りにここに来るのは初めてなんだ・・・。ミカドから聞いてはいたが、実際見てみると迫力が違うな。いやむしろ、まるで夢のように現実感がないんだな」
「私は・・・・なんて言うものを見てしまったのかしら」
既に平然としているナムチの横で、ナルはここに来て身体が震え、立ち続けられずその場に座り込んだ。
「あれは、一体」
「生贄だよ」
「それは分かってる・・・けれど、どうして人を・・・。」
既に雪は降ってはいなかったが、ナルは凍える手を口元へとやった。生贄といえば、兎や猪、狸といった山の動物がナルの知っているものだった。だが、それでも生贄というのはあまり日常的ではない。そのような供物を望むのは、大抵、怒り、祟る神、鬼であるとされるからだ。
この山に祀られる神は、豫国の守護神である。その神が、生贄を望むはずがないではないか。まして、人の生贄など。
たとえ里で育ってきた巫女であっても、その行為には戦(おのの)かずにはいられない。
「人の命が、人にとって兎や猪よりも貴重だからだよ。お前も当然知っているだろう。供物というのは、天地の恵みで生きていくのに大切な食べ物だ。その大切な食べ物を神に捧げることに意味があるんだ。供物は自分にとって大切で貴重なものほど良いとされるから、行き着くところは」
「で、でもそれは、野や森や川の、荒ぶる神々、鬼の話ではないの。この山の大神は、豫国の守護している高貴な神のばすでしょう。山や海の恵みこそ供物となっても、人の命など」
「俺もよくは知らないけど、ここ何十年かはずっとそんな事は無かったはずだ。たぶん、サクヤ様が考えたか、ずっと昔に廃れていた風習を復活させたんじゃないかな」
「ナムチ、よく淡々とそんなことが言えるわね。あなたも見たでしょう。生きた人間が焼
かれたのよ」
ナムチは自分が非難されていることに気がついて、軽く笑った。
「全く、巫女団の巫女は世間を何も知らないから。確かに人の命は尊いものさ。だが、今豫国でも倭国でも出雲でも、毎日人は死んでるんだ。殺されてる奴もいる。年送りの生贄は、豫国の民の罪と穢れを背負って焼かれたんだろう? 戦いでだってな、全体を助けるために味方に囮として使われて死ぬ奴もいるし、そういう命令を出す奴もいる。別にここだけの特別な話ではないよ」
真顔で語るナムチは、一つ二つほど大人びた表情だった。まるで突き放すような言い方に、ナルは反感を持つ。何かひと言言い返してやろうと思って考えていると、先にナムチは続けて口を開いた。
「それよりもナル、早く自分の家かどこかに戻った方がいい。サクヤ様はきっと、覗いていた相手がお前だって気づいていない。だからお前は大急ぎで自分はあそこにはいなかったという、そういう証拠を作るんだ。残念だけど、俺ももう行かなくちゃならない。俺も見つかったら命はないからね」
その後のことを、ナルは余り覚えてはいなかった。結局イワナの所に帰ったのは間違いないのだが、その後イワナから聞いた長くそして重大な話は、それからしばらくの間、思い返すこともなかった。
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