第十三話 夕餉

「今日からあなたの指導役を務めることになったイワナです。といっても、あなたとは他の者に比べて、話す機会もありましたね」


 白い絹の衣を纏い、背筋をまっすぐに伸ばし、まるで雪を被った岩山のような威容でイワナは挨拶をしてきた。

 不本意ながらもイワナに指導をしてもらう事になったナルは、しきたりに従い夜にはイワナの家に訪問することになっていた。指導役とその教えを受ける者は、こうやって一緒に夕餉を取ることになっており、今日はイワナとナルがはじめてともに過ごす夜だった。


 通常、里の家といえば地面を円形に掘り窪めて作るものだが、サクヤやイワナのように高い地位にいる者の家は、太い柱で支えられた高い床の家、『宮』とよばれるものに住んでいる。宮には火を焚く所がないので食事は外から運ばれることになっており、近くには幹部の食事を作るだけの部署がある。


 ナルは礼をして手土産の山菜を渡すと、奥へと案内され座ることを促された。食事は既に運ばれていて、見てみると自分が普段食べているものよりもよほど豪華で品数も多い。イワナはもはやサクヤに次ぐただ一人の大幹部なので当然と言えば当然だが、まさか自分も同じ食事をとれるとは思ってもみなかった。


 ナルのその驚きに気がついたのか、イワナは目を細めやや満足げな表情をした。自分が指導役になれば、こういう役得があるのだぞと、主張しているようでもあった。

 ナルはイワナのその視線に気がつくと改めて頭を垂れたが、心の中ではため息をついた。確かにこの食事が毎日食べられるというのは魅力には違いないが、それと引き替えにイワナが指導役になることを考えれば、やはり元の食事の方がずっとましである。


 ナルは自然に食事をしている風を装い、師となった人物を改めて見た。眉間の狭く頬骨の高い、見るからに気難しそうな顔立ちに、顔中に刻まれた深い皺、やや薄くなっている総白髪。大巫女のサクヤが春を感じさせる人物ならば、イワナは間違いなく冬のような性質の人物である。


 年少者のちょっとした粗相に目くじらを立て、慈悲のかけらもない意地の悪い罰を与え、何かと尻を叩き、何かと手柄は独占する。これではたとえ彼女に巫女として圧倒的な才能があったとしても誰からも慕われるはずがなかった。


 けれどもよく考えてみれば、自分はイワナのことをよく知らない。というより、里の誰もがイワナのことについて詳しくは知らないのではないだろうか。彼女は謎が多い。確かに噂は多く、何かと話題に上る人物ではあるのだが、彼女の過去やこの里に来た経緯について、はっきりとした情報は分かっていないのである。


 普通、巫女団に入る事の出来る年齢は、幼ければ幼いほど良いと言われている。実際に巫女団には、幼い頃に才能を見いだされて連れて来られた者たちがほとんどで、ナルやククリ、レイやサキもそのようにしてこの里にやってきた。

 しかしイワナは違う。イワナが一体いくつの時にこの里に来たのかは分からないが、それでもそれが少女と呼ばれる年齢ではないというのは確かな話だった。当然、そのようなことは異例である。しかも、そのように高い年齢で里に入った女には、巫女としての才能がなかった。にもかかわらず、異例の大出世で大巫女の補佐という大幹部にまで上り詰めているのだから、やはり尋常なことではない。一体、何をどう評価されたというのだろうか。


 そこでナルはふと、ある噂を思い出した。それはイワナがミカドの一族であるというものである。そもそも王族の女子が、巫女団にやってくることは珍しく話ではなく、現在の大巫女であるサクヤはミカドの姉でもあり、そのように里に一族の女子を送り込むことは慣例になっている。実際、ミカドの一族の女子には巫女として優れた能力を持っているものが多いのだ。


 巫女団は俗世のあらゆる束縛、身分とは別のところで生活している者たちだが、それでもミカドの一族、王族となればやはり待遇は違ってくるだろう。もしやイワナは王族で、何かの事情でここにやってきたのではないかとナルは思った。


「なんですか、私の顔がそんなに気になりますか」


 怒りを含んだ鋭い言葉に、ナルは身を震わせて視線を下げた。


「い、いえそんなことは。イワナ様の家はとても不思議な匂いがすると思いまして」


「ふん、先生、とお呼びなさい。ふん、まあ匂いに敏感というのは悪いことではありません。あれをご覧なさいな」


 イワナは視線を部屋の右奥に向けた。そこには布が被されているが、下にはいくつもの器があることが分かる。何かの作業に使われる一角のようである。よく見ればその区画自体、捲り上げられている白布で仕切ることが出来るようだった。


 「私はここで、野の草花や動物、虫に至るまで様々なものを煎じて組み合わせ『薬』という病や怪我を治すものを作っているのです。その為、ここでは少し変わった匂いがするのでしょう。仕方のないことですから、あなたも慣れるように」

 実はナルはそれほど気にはなっていなかったのだが、家に入った途端に広がった匂いには気づいていた。恐らくこれが普段、影で「イワナは臭い」といわれている理由なのだろう。


「先生ならば、薬や材料を置く、別の家か倉庫のような場所を用意してもらえるのではないですか」


「確かにそれも出来ますが、薬をつくるための材料にはとても危険なものもあるのよ。出来るだけ手元に置いておきたいの。この里の薬は全て私が煎じています。あなたがもし、今までに熱が出した経験があるのだとしたら、あなたも口にしていることでしょうよ。サクヤ様の祈りなどより、私の薬の方がよっぽど効くのです。それなのに、里の馬鹿どもは私を臭い臭いだなどと・・・」


「私は、今まで熱を出したことはありません」

ナルが特に深く考えずに出した言葉に、イワナは魔物のような形相できっと睨みつけた。


「そんなこと聞いていませんよ!」


 怒鳴ると同時に、イワナは持っていた空の器を壁に叩きつけた。器は割れて飛び散る。イワナは立ち上がり、右足を器用に何度も床に打ち付けた。


「ああっ、全くどいつもこいつも、私の苦労も功績も知らないで陰口ばかり叩く。私がどれだけ巫女団のために苦心しているか誰も分かってない! 巫女団は巫女の数が増えて、どんどん大きくなっているのだから、監視や指導をもっと厳しくしなくてはならないのに。なのに他の連中と来たら、それを疎かにしてああいう安易な方法をとろうとする。ああ、それがどういう事か全く分かっていない、あーあー!!」


 自分の師の突然の激昂に、ナルは目を大きく開けるばかりで動くことが出来なかった。あのいつも氷のように冷静なイワナはどこに行ったというのだろう。確かに意地悪な人ではあるが、このように大声で叫んだりする印象は全くなかった。


「はあはあ・・・・ナル、そこの壺の中にある葉を一枚取って頂戴・・・早く!」

 激昂し手足をじたばたさせたイワナは、次第に息苦しそうになっていき、ついにはその場に倒れ込んでしまった。ナルは言われるままに、その通りにする。壺には見たこともない種類の葉がいくつか入れられており、恐る恐るその内の一枚を取りだしてイワナに渡す。イワナは奪うようにしてそれを受け取ると、灯りの炎で葉に火をつけ、それを別の空壺に入れた。そして器の口に顔を持っていき、ゆっくりと呼吸し始めた。

 

 ナルは一体何が起きているのか分からず、呆然としていたが、しだいにイワナは葉の煙を吸っているのだと悟った。恐らく、この煙が気分を落ち着かせる効果があるのだろう。

しばらくすると、ナルはさらに驚くべき事態を体験することになった。


 「ああ、ありがとう、ナルや。ああ、ナル。私の可愛い教え子よ。あなたは私の教え子として大切に扱ってあげるからね。巫女には子どもがもてないから、皆指導役は教える相手を自分の子どものように思って教育するの。だから私も、あなたを我が子のように大切に育てるつもりよ。ええ、任せて頂戴。明日からは、あなたは私と一緒に薬のお勉強をしましょうね。うふん」


 うふん・・・。ナルは今度こそ一体何が起こったのか理解出来なかった。先ほどまで、眉間に皺を寄せて愚痴をこぼしていた底意地の悪そうな老婆が、一転上機嫌で語りかけてくるのである。これはもう気持ち悪い。


「あ、あの先生」

 戸惑うナルだったが、イワナの満面の笑みは全く崩れることなく続いている。

「あー、可愛いナルちゃん!」


 ついにはぎゅうっと抱きしめられてしまった。もしやイワナは気でも触れてしまったのだろうか。

 ナルは全力でイワナを押しのけると、後ろも振り返らずに外へ逃げ出した。


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