第十一話 姉妹たちの夜

 いよいよ明日倭国の使節が里を旅立つという時、ナルとククリはようやく自分たちの家で食事をすることが出来ていた。里中が旅の荷造りやら挨拶やらでてんやわんやの中、本当であればこのように過ごす時間を作ること自体、難しい状況であった。この時間と機会は、サクヤが気を利かせて用意してくれたものである。ついにはっきりとした決断を口に出せないままのナルの心中を思い、最後の機会を与えたのだろう。


 そしてそれは、ナル本人にも分かっていることだった。


 姉がついでくれた山菜汁の椀を震える手で受け取りながら、ナルは必死に考えを集中していた。一方ククリは明日この里を出て、見知らぬの土地へ旅立つというのに、いつもどおり優雅な所作で、驚くほどの平静さである。


 決して姉と目を合わせず、汁を口に運んでいるナルとは対照的だった。


「ナル、私の事は死んだと思ってね」


 張り詰めた家内の空気を、まるで埃を払うかのように容易く破ったククリの言葉にナルは手元の動きが止まった。

 思わず、姉の顔を見てしまう。


 その表情は相手を包み込むように何とも穏やかで、まるで大巫女のサクヤに通じるものがあった。もはやククリの胸中は巫女団の幹部どころか大巫女のそれになっているのだろうか。花のような美しさと、山のような威厳が、すでに姉にはあるのを確認した時、急に姉はもう遠いところにいるのではないかという不安が胸に駆け巡った。


「なにを」


「あなたは来てだめよ。そして、私の事は死んだと思って」


 ナルはどうして、という言葉を口にすることが出来なかった。姉が何を言おうとしているか、ナルには分かっていたのである。どうしてただ一人の愛しい姉に付いていってはいけないのか、どうして自分の事を死んだと思ってくれなとどいうのか、その理由は、いちいち並び立てる必要がないほど、二人の間には通じるものがあるのだ。

 

二人は静かに見つめ合うと、ナルは何かを諦めるように肩を落とした。

 

 すると二人は昔の話を語り合い始めた。


「この里に来た頃は、本当に大変だったわね。いえ、来るまでが大変だったわ」


「・・・そうなの?私はあまり覚えていない。ここに来るまで、お腹を空かせていたのは覚えているような気がする」


「そうね、あなたはまだ小さかったから。川の氾濫で父様や母様が亡くなって、あなたと二人でどうしていいか途方に暮れていたのよ。豫国はもうずっと争いのない国だけれど、それでも親を亡くした小さな姉妹が生きるのが簡単なはずはない。本当に、あの時巫女団に見つけてもらえなかったら、私たちはどうなっていたのか」


 そう語るククリの表情は、かなり大人びて見えた。きっと、死んでいたかもしれないことを考えていたのだ。


「私はね、ここに来てから姉様と過ごせる時間が少なくなったでしょう? だから実はね、ここに来る前に戻って、ずっと姉様と過ごせたらと思っていた時もあったのよ」


「全く暢気なことを。私はここで自分たちの居場所を作るために、日夜修行に励んでいたというのに」


 少し疲れたような顔で微笑む姉の顔は、やはり一つか二つは老けて見える。

 きっとこの人は自分の知らないところで自分を守ってくれていたのだとナルは悟った。巫女としての資質を見いだされ、何も分からずこの里に連れて来られ、若くして巫女団の幹部に上り詰めたククリ。しかしその道が巫女たちの間で言われているほど、簡単であったはずがない。


 異例の出世を遂げたククリを、妬む者が少なくないこともナルはちゃんと知っているのだ。妬みは忌むべき感情として考えられているので、この里では表面上は禁忌なのだが、それでも自分より優れた者を妬まない人間などなかなかいはしない。その感情が表に出ないよう、必死に自分を律するのがせいぜいである。そして中には、その感情に身を任せて意地悪をする者もいるのだ。


 姉とってこの里は、一体どのような場所だったのだろう。ククリが去るという時になって、ナルはそんなことを考えた。

 そして同時に、自分たちの父と母のことが頭をよぎる。


「私たちのお父さんとお母さんは、どんな人だったの」


 その事は、意外なことに今までほとんど気にならなかった話題だった。自分は物心つく前に両親を亡くし、気がつけばもうこの里で当たり前に暮らしていた。周囲を見ても自分たちの親の事を語る者などほとんど無く、姉こそがナルにとっての保護者だったのだ。

姉妹の間でも、両親の話題が事はほとんど無い。だが、今唯一の肉親である姉との長い別れを前に、ナルは自然と両親のことを尋ねた。

 するとククリはしばらく考えてから、微笑んで答えた。


「父様も母様も、とても善良で控えめな人だった。特に何かに秀でたところはなかったけれど、平凡で誰からも憎まれることも妬まれることもない。そんな記憶があるわ」


 ナルの脳裏に、影になった両親の輪郭が浮かぶ。きっと、二人は優しい人たちだったに違いない。今まで考えたこともなかったが、その人たちが存命であればこの里の外で家族だけで暮らしていたかもしれないのだ。

 「ああ、でも一度だけ。自分の娘を親戚に自慢していたのを覚えているわ。『私の娘はね、お腹に宿した時に時に太陽がお腹に入ってくる夢をみたのよ。きっとこの子は太陽のように輝いて、人を明るくする子に違いない』って」


 ナルは、自分たちの母はちゃんとククリの素質を見抜き、人生の幸福を祈る事の出来る人だったのだと知り、嬉しいような気持ちになった。


「姉様が太陽なら、私はお星様だね。お月様にも及ばないから」


 これからは自分がこの姉を支えていきたいと思った。今すぐには無理だろう。だが、いつか自分も成長する。どんな形であれ、この人のために働きたいのだ。


「姉様、私ここでもう少し大きくなって、修行をして、姉様の役にたてるようになったら、必ず倭国に行く」


 ナルは立ち上がり、大きな声で宣言した。

 ククリはとりあえず驚くような顔をしたが、実際はそれほど驚いていない風でもある。目を閉じ、諭すように静かに語った。


「そう、そうなれば私も嬉しいわ。でも、誰でも歳を重ねた分だけ選択肢が変わってくるわ。増えるのではなくて変わるの。その時自分にとって何が大事なのか、必要なのか。だから、あなたも私という存在に縛られず、その時自分が一番したいこと、選びたいものを選びなさい。それが出来れば、きっと人生は愛せるものになるはずよ」


 ククリの眼差しは、染みこむように慈愛に満ちていた。見たことのない母がかつて長女の幸せを願った時も、このような瞳だったに違いないとナルは思った。

 ナルは、この日の食事とククリとの会話を、生涯忘れることが出来なかった。


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