第十話 足手まとい

 柔らかな春の日差しの中、ナルは小川の畔にある岩に腰掛けきらめく水面(みなも)を無言で眺めていた。身体を撫でてくる風は、昨日とはすっかり違って感じる。昨日までこの場所で吹いていた寒く乾いた風が、今日は花の薫りを含んだ香しく潤った風になっている。


 季節が変わったのである。この劇的な変化は、春迎えの儀式を終えた事によるものだとナルは思った。 


 ただし、目の前に流れる川の流れは変わっていない。

 

 素晴らしく透明で清らかな里の小川は、その行く先を変えることなくナルの前を流れている。いつだったか、姉とこの川で遊んだこともあったとナルは思い出していた。まだ自分が幼く、姉も幹部にはなっていなかった頃の話である。この川はあの時と何も変わっていない。もしこの里にも流れのようなものがあるとしたら、三日前の一件で大きく変わったしまったとナルは思った。

 

 この三日はまさに何もかもが流れるように過ぎていった。あの夜の後、すぐにククリに付いていく十人の巫女が選抜され、彼女たちの旅の支度を里中で手伝うことになり、その二日後には一団の無事と繁栄を願っての儀式も盛大に執り行われた。

 

 全てが前代未聞のことであり、誰にとっても慌ただしく時間は過ぎていく。


 そんな中、人々が忙しく立ち回りながらも密かに関心を寄せていたのは、ナルの今後の事である。ククリの倭国行きが決定したことで、ナルの進退についても人々は注目し始めたのだ。何しろククリはナルのただ一人の姉であり、ナルが里にやってきたのもその姉に付いてきただけということは、もはや周知の事実である。

 

 もちろん今やナルもこの里の一員であることは誰もが認めるところではあるが、筋から言えば姉のククリについて行くというのも決しておかしいことではない。本人が望めば、特別の枠で倭国に付いていくことは十分可能だろう。

 

 一方で、倭国が今とても荒れている土地だと言うことも、もはや人々の間には知れ渡っていた。そのような恐ろしいところへ、選ばれてもいないのにわざわざ行くのだろうか。その決断は里にとっては特別な事ではないが、人々の関心事としてはとても大きなものだった。


そして当のナルはといえば、未だ決断を下すことができていなかった。


「私が優柔不断というわけではないのだろうけれど・・・」

 水面に映る自分の姿を見つめながら、ナルは呟いた。

 そうなのである。今や里中が、自分がどうするかについてそわそわと注目しているのは分かっているが、これはそう簡単に決められることではない。

 

 ただ一人の肉親である姉に付いていきたいと望む気持ちもあれば、見知らぬ異国を恐れる気持ちもあるし、何より今の自分ではその異国でなんの役にも立たないということは分かりきっている。倭国に自分の居場所などあるはずもなく、できる可能性も限りなく低いのだ。ただ姉の側にいたいというだけで、即断できるものではない。もうここには、自分の生活というものがあるのだから。

 そもそも、とナルは思う。もしや姉は、うすうす今日のこの事態を予見していたのではないだろうか。優れた巫女が先に起こることを予見できるというのは、この里の常識である。

 だからこそ、姉はあの時あれほど即座に倭国行きに名乗りをあげることが出来たのではないだろうか。


 ならば、倭国行きというものをたった三日前に知らされた自分が、それほど早く進退を決められるはずがないではないか。もしそうならば、どうして妹である自分に教えてくれなかったのかということになる。


「おおっ、おちこぼれが川にいるぞ。川に落ちるのか」


 その芝居がかった生意気そうな声は、川の向こう岸から聞こえてきた。

 川と行っても幅の狭いささやかな川なので、声は川音にかき消されることなくはっきりとしている。

 はじめは不意のことで相手の言葉の意味が分からず、きょとんとしていたナルだったが、声の主が小生意気なあの少年であることを確認すると、全てを理解した。どうやらこの少年は、ここ数日で里におけるナルの立場をどこからか聞き知ったようである。

「ナムチ・・・あんたなんでこんな所にいるのよ」

「おいおい、それはこっちのせりふだよ。俺はこの里の正式な客人だぞ。ミカドの使者様だ。だからあちこち歩き回っても許されるのだ」


 少年はえっへんと、胸をはった。


「私だって、豫国の巫女よ」

「まだ見習いだろ。それもおちこぼれの」

 ナルは腹が立ち、水面を足で蹴って水を飛ばした。ナムチは慌てながらも嬉しそうにそれを避ける。


「それより、こんな所にいて良いのか。巫女の修行があるんじゃないのか」

「普段ならそうだけど、今は偉い人がみんな姉様たちを送り出す準備で忙しいから、私たちは昼までで自分の家に帰されるのよ。必要なものを揃える手伝いも、私たちがやれることは終えてしまったの」


 そうか、といってナムチは屈託のない笑顔を見せた。

 生意気な奴だが、笑顔は中々可愛い。不服ながらもそれを認めると、ナルはふとこの少年は何者だろうと気になった。

 ナムチは倭国の王子である帥大の使節の案内役としてこの里に来たが、どうも倭国の人間ではないらしい。その証拠に彼の髪型は帥大達とは違うし、顔や身体にも倭国人にある不思議な文様が刻まれてはいない。つまり、彼は倭国ではなく自分たちと同じ豫国の人間なのは間違いなかった。

 豫国の都から、ミカドの命を受けて倭国の使節を案内する役を仰せつかる少年とは、一体何者なのだろう。


「お前、姉のククリ殿についていくか、悩んでいるのだろう。やめておけ。倭国には行かない方が良い」


「どうして、そんなこと言うのよ」


「お前、このままククリ殿が倭国に行って、すんなり女王になれると思っているのか」

 先ほどまでの生意気な悪童の顔が、刃物のように鋭く真剣な表情に変わっていた。その神妙さに、ナルも思わず息を呑む。


「なんであんたにそんなこと言われなくちゃ行けないの。確かに、今倭国は荒れているらしいから、色々大変なんだと思うわ。けれど、姉様の巫女としての力は確かなものよ。国をまとめることだって、難しくはないはずよ。第一、一から国を作るというわけではないのですもの。この豫国でやっていることを倭国でやれば良いだけじゃない。姉様を支える優秀な巫女様方もついていくことになっているし・・・」


「そういうことじゃない。今、ナルが言ったことは間違ってはいないけど、問題はそれだけじゃない」


 ナムチの真剣な眼差しは、見る者を魅了するような不思議な何かがあった。ふと、この少年の出自は高貴なものではないのかという気がしてくる。


「お前、サクヤ様が巫女を倭国に遣わすお告げを下した時、一緒に話を聞いていただろう。あの時、サクヤ様は倭国に行って、女王国を作れというお告げを下した。だがな、倭国はおろかこの豫国でさえ女王国というわけではないんだ。大巫女は神のお告げを王都に伝えるけれど、実際に政をしているのはミカドだ。これがどういう事か分かるか」


 ぴしゃっと、川の小魚が跳ねた。

 しかしナルはナムチから目が離せない。


「どういうこと」

「つまり、倭国には政を支配している王族がいる。帥大殿の一族だ。彼らはこの里から巫女を連れてきて、その力で自分たちの補佐をしてほしいとここまでやってきた。けれど、決して自分たちの王を求めてきたわけではないんだ。あくまで、主導権は自分たちが握っていることが前提なんだよ。だけど、お告げはそうではないだろ。ここから派遣される巫女、つまりククリ殿が女王となり、頂点とする女王国を作れと言っているんだ。俺は、お告げが下された時の帥大殿の一瞬の表情を見逃さなかった。これは近いうちに、自分たち王族と巫女が、立場や地位を巡って対立が起きると覚悟する顔だった」


 考えてもいなかったナムチの指摘に、ナルは言葉を失った。


「それって・・・・いずれ倭国では姉様と王族たちの間で、一波乱あるってこと?」


「そういうことだ。もちろん、先に巫女の力をみんなに披露し、納得させた後のことだろうな。考えても見ろ、倭国で巫女の権威が高まれば高まるほど、王族の立場と対立していくじゃないか。豫国にだってその危険性はあるんだ。けど、うちは何代かに一度は王族の女子から大巫女を任命することで、それを防いでいるからね。ところが倭国は違う。王族と大巫女になるククリ殿は縁もゆかりもないし、ましてククリ殿は豫国の人間だ。倭国で巫女としてククリ殿の権威や発言力が増せば増すほど王族たちは警戒し始める。そういう者に取ってみれば、豫国に侵略されたと映るだろう」


 ナムチの指摘は筋が通った的確なものである。それほど頭が良いとは思っていないナルにも、彼の言わんとしていることがよく分かった。

 つまり帥大たちは、ククリを完全に自分たちの管理下に置いておきたいという思惑があり、それはここで下されたお告げと対立するものなのだ。姉は倭国の王族がなんと言おうと、お告げに従うだろう。その事が、倭国の人間の目にどのように映るとしても。


「まあ、それでも倭国でそれが起こるのはずっと先だろうけれど。さしあたり、出雲に侵略された王都と八つの邑を奪還して国内が安定してからだと思う。とかにく、今もこれからも倭国はお前が考えているよりもずっと荒れる。そんなところに、自分の身を守る力のない者が行っては危険だ。ククリ殿の足手まといにもなるだろう」

 今まで考えもつかなかった果てしない未来の絵図に、ナルは黙り込むしかなかった。

 神や精霊とは違う、絶えず動いている何か大きな流れが、自分や姉や国々までも巻き込んで蠢いている。その事に戦慄さえ覚えてしまう。

そして、足手まといになる、という最後のひと言はナルの胸に鋭く突き刺さった。

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