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 穏やかな歌声に、ラナはゆっくりとまぶたを上げた。


 血で濡れた果物ナイフが、朝日を弾いて灰白色に輝く。呻きながら身を起こした彼女は胸元に手を当てた。白のブラウスは汚れているが、痛みはなく傷もない。先程まであったはずの傷がないというのは奇妙な感覚で、掌で胸元に当てたラナは息をつく。


 辺りを見回した。部屋は、嵐を迎えたかのように荒れ果てていた。割れたカップが紅茶をこぼす。棚に並べられた品物は残らず床に落ちている。音の正体はカセットテープで、細い歌声を静かに響かせていた。すぐ近くには、お世辞にも上手いとは言えない絵を納めた紙のファイルが開かれている。


 そしてアランの姿は、どこにもない。


 携帯端末の鳴動が響いた。ラナは目を伏せ、ゆるく首を振ってから通話に出る。


「もしもし」

「遅い」


 開口一番、エメリのきびきびとした声が飛ぶ。


「耳がイカれたわけではないだろう。ならば、一コールで出るのが礼儀というものじゃないかね」

「ごめんってば……」苦笑いしたラナは立ち上がり、携帯端末をベッドサイドに立てかける。「こっちも病み上がりなんだよ、一応」

「私の予想通りに傷はふさがったろう。お前の魔術とやらが真実、時間の巻き戻しであるというならば」

「そりゃそうだけど。こういう経験はもう二度としたくないかな……それで? そっちの状況を教えてもらってもいいかい?」


 巻き戻った時間が三日であること、エメリ達の記憶が保持されていること、テオドルスとカディルを取り逃がしたが、その行方にも見当がついていること。


 淡々と紡がれるエメリの話を聞きながら、ラナはゆっくりと歩を進めた。


 不格好な包帯代わりのハンカチを拾い上げた。時間をかけて丁寧に畳み、棚の中央へ戻す。


 カセットテープを止めた。ふつと途切れた自身の歌声に目を細め、小さな機械をハンカチの隣に置く。


 壊れた耳飾りを夜色の天鵞絨ビロウドで丁寧に包んだ。もう二度と踏みにじられることのないよう、小箱の蓋を閉じて棚の左端へ納める。


 丸と棒と、点が二つ。かろうじて人の顔に見える絵をそっと指先で撫で、ファイルを閉じて棚の右端へ立てかける。


 そして携帯端末を取り上げ、部屋の入口まで進んだところでラナは振り返った。


 部屋は乳白色の朝日に包まれていた。そこには呆れるほど沢山の思い出の欠片が詰まっているのだった。優しい願いも、哀しい記憶も。彼が否定し、けれど守り続けてきた全ての過去がひっそりと息づいている。


 自分と彼が過ごした、輝石のような時間が。


「――さて、それでは準備はいいかね」


 エメリの声に、ラナはそっと目を閉じた。


 今更になって喉奥から込み上げてくるものを押し止める。逃げ出したくなる心を叱咤しったする。胸が痛くなるほど愛しい彼との想い出を胸に刻む。


 そしてラナは、黒灰色の目を開く。


「うん、行こう。アランの願いを、今度こそ終わらせるために」

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