4-2. これは幸運

 カラスが鳴く。

 しわがれた鳴き声に、娼館の個室で少女はぼんやりと意識を浮上させた。部屋は暗く、人の気配ない。ベッドから身を起こした彼女は、靄のかかった頭を傾ける。


 誰かを探さなくては。

 けれど、誰を。

 いいや、そもそも自分は何をしていたのだろう。


 そこまで考えたところで、少女の頬を涼やかな風が撫でた。彼女がゆるりと目を上げれば、窓辺に鴉が止まっているのが見える。紅の目で、じっと少女を見つめていた。漆黒の体躯は微動だにせず、そのせいで夜闇そのものが自分を見つめているような錯覚がする。


 鴉が一声鳴いた。しわがれた声は少女の鼓膜をざらりと撫で、僅かに残った理性を押し流す。あとに残されたのは、ただ一つだけ。


「……さ、がさなきゃ」


 ぼんやりと呟いて、少女はベッドから転げ出た。ふらりと部屋を後にする。

 鴉は未だ、窓辺に止まっている。


 *****


「ごめんなさいね。急に代役になってしまって」

「いや、いいんだ。まさか、こんなに綺麗な子に会えるとは思ってもなかった」


 娼館の一室で、鼻の下を伸ばしながら青年が応じる。椅子に腰掛けた彼に向かって、シェリルはにこりと笑った。


 酒をグラスへ注ぎながら、彼女は改めて男を見やる。オフホワイトのシャツにネイビーのズボン。身なりは綺麗だが、質はさして良くない。


 やはり金持ちなんかじゃない。シェリルは思う。酒に口づけ、舌先で転がしながら思考を一段進めた。


「ヤンセンさんは――」


 受付でちらと確認した男の家名を口にすれば、青年がひらりと手を振った。


「テオドルスでいいぜ。今までの子も皆そう呼んでくれてたし」

「あら。名前で呼ばせて頂けるなんて光栄だわ」そこまで言って、シェリルは僅かに唇を尖らせる。「あぁでも……少し嫉妬もしてしまうかしら」

「嫉妬?」

「だって、前の子なんかより私の方がずっと綺麗でしょ? なのに、貴方の特別にはなれないなんて」


 シェリルが青年――テオドルスを挑戦的に見つめれば、彼は口笛を吹いた。


「いいね、君。随分強気じゃんか」

「強い女はお嫌い?」

「まさか。すげぇ好み」


 砕けたテオドルスの声に、シェリルは小さな笑みを浮かべて歩を進めた。酒を一口飲み、男の傍らにある卓の上――彼の唯一の持ち物であるパソコンの隣にグラスを置く。

 シェリルの腰にテオドルスの腕が回される。それに抗わず身を寄せ、シェリルは彼にしなだれる。


「よかったわ。これで、今度からは私がテオドルスさんを独占できるってわけね」

「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」


 シェリルの背を撫でたテオドルスは、そこで少しばかりバツの悪そうな顔をする。


「だが、前の子には悪いことをしたか。君に乗り換えるとなれば、ショックを受けるかも知れないし」

「いいのよ。体調管理もできない方が悪いんだわ」

「体調管理っていうと、風邪か何かか?」

「それくらいで済めばいいのだけれどね」


 テオドルスの肩へ腕を回したシェリルは、その耳元で囁いた。


「――ほら、流行ってるでしょう? 最近妙な病気が」

「……懐古症候群トロイメライか」


 一拍遅れて、テオドルスが顔をしかめた。シェリルはしかし、それに気付かぬフリをして目を伏せる。


「そうでなければ勿論いいのだけれど。こんな仕事だから、ただ単に気が滅入っちゃう子も多いのは事実だし」

「まぁ、うん、そりゃなぁ……だが医者には診せてんだろ?」

「勿論よ。かかりつけのお医者様がいるもの。でもやっぱり、不安で」

「不安?」


 シェリルは小さく頷き、ため息をついた。テオドルスの肩に己の額をつけながら、とつとつと言葉を紡ぐ。


「最近、増えてるのよ。急に調子を崩しちゃう子が……まして、懐古症候群だなんて訳の分からない病気を伝染うつされたらどうしよう、って……」


 テオドルスからの返事は、すぐにはなかった。白か黒か。はやる気持ちを抑えて、シェリルは彼の襟元をぐっと掴む。


 遠くで鴉の鳴き声がする。部屋の気温が一段下がったような気がした。不意に訪れた沈黙に、シェリルが平静を装って耐えることしばし。


「……そんなに心配なら、予防する方法を教えてやろうか」


 テオドルスの低い声に、シェリルは思わず顔を上げた。

 深緑色モスグリーンの目が、じっとシェリルを見つめている。その顔に笑みはなく、かといって彼女を案じるような様子もない。

 間違いない、彼は黒だ。シェリルの中で予感が確信に変わる。

 何も言わないシェリルに、テオドルスは懐から錠剤を取り出した。


「予防くらいなら、1日1錠で十分だな」

「……薬があるなんて知らなかったわ」

「研究段階の代物さ。あんまり口外はしてくれるなよ」言いながら、テオドルスはシェリルの掌に薬を一錠落とした。「とりあえず、物は試しってことで飲めばいいんじゃないか? 気に入ったのなら、次からも持ってくるようにするよ」


 水でも持ってこようか。テオドルスの気安い声に促されるまま、シェリルは彼から身を離した。そのまま彼女は己の手の中にある薬を見つめる。


 何の変哲もない楕円形の白いカプセルだ。何かでコーティングされているのか、間接照明の灯りを弾いて輝く。


 これが懐古症候群と関わっているのだろうか。そう思えば、自然とシェリルの手が震えた。男の言う通り、予防するための薬であるならばいい。けれど、もしも逆の効果を持っていたのだとしたら。


 思案に暮れるシェリルの視界の隅から、水の入ったコップが差し出された。ちらと見やれば、テオドルスが探るような目つきでシェリルを見つめている。


「飲まないのか?」

「……飲むわよ」


 ここまで来て、引き下がることなんてできない。シェリルは半ばひったくるようにしてコップを受け取った。指先でパソコンを叩きながら、テオドルスが面白がるようにシェリルを見つめている。それを一瞥し、シェリルは水で薬を飲み下す。


 何かを予感させるように、時計台の鐘が静かに鳴り始めた。



*****



「くそ……」


 隣室で、壁に耳を当てていたラナは舌打ちした。


 さすがは娼館と言うべきか、音の一つも聞こえやしない。ラナは己の浅慮さにため息をつく。シェリルは最初からこのつもりだったのだ。隣の部屋に入られては、ラナには手も足も出ない。


 暗い部屋をぐるりと一周し、結局ラナはベッドに腰掛けた。間接照明の灯りをつけてみたものの、何をする気にもなれない。夜更けだというのに、窓の外から鴉の鳴き声がした。あぁそういえば、昨日の廃ビルでも鴉の鳴き声が聞こえたのだった。サファイアの耳飾りを弄りながら、ラナはぼんやりと思い出す。


 そこで、扉の開く音がした。


「誰だい……?」


 ラナの問いかけに無言を返したのは娼館の少女だ。戸口で呆然と立ち尽くしている。ラナより少し幼いだろうか。整った顔は白く、その目だけがぼんやりと部屋を見回す。

 やがて彼女はぽつと呟いた。


「……い、ない」

「いない? だれか探してるのかい?」


 少女は答えず、よろめくように身を翻した。その足元で影が一瞬揺らめいたように見えたのは気のせいか。部屋の外に出て行く彼女にラナは目を瞬かせた。なにかがおかしい。


 ラナはちらと隣の部屋に目をやった。声は相変わらず聞こえない。迷いは一瞬だ。少し様子を見るだけ。そう言い聞かせ、カセットテープの電源を入れながら廊下に出る。


 香の薫る廊下を、少女はよろよろと歩いていく。さして時間も経たない内に、行き止まりに辿り着いた。袋小路になっていて、物が雑然と積み重ねられている。奥の壁には消火栓の入った赤い箱が嵌められていた。火災報知器のランプが禍々しい赤の灯りを振りまいている。


 誰もいない。何か特別な物があるわけでもない。その中で、少女はそっと火災報知器に手を添え、それを押し込んだ。


「っ――!」


 けたたましい警告音に、ラナは首をすくめてポケットに手を入れた。少女が振り返り、ラナの方に目を向けたのはその直後だ。


「いないの」


 呟いた少女の影が有り得ないほど大きく膨らむ。

 それと同時に、ラナは掴んだ輝石を素早く掲げた。


『冠するは太陽 恐れを退け宵闇を散らせ!』


 光をまとった風が吹いた。それを目を閉じてやり過ごしながら、ラナは前方へ駆ける。次に目を開いたときに見えたのは、ぼんやりとたちすくむ少女。影はない。それだけ確認し、ラナは彼女を床に押し倒す。

 暴れる小柄な体を抑えつけ、取り出した懐古時計を胸元に押し付ける。


『冠するは時  千切れた運命を手繰り寄せ 廻る世界へ引き戻せ』


 かちん、と懐古時計が音を鳴らした。


 顕れた月白の光は瞬く間に光量を増し、少女の闇を食らう。抵抗はあるが弱々しい。ラナが押さえつけていれば、少女は次第に動きを止める。


 ほどなくして光が止み、ラナはゆるゆると息を吐いた。倒れ込んだ少女が安らかな息を立てて眠っているのを確認し、ゆっくりと立ち上がる。


 一体なんだったのだろう。少女を見下ろしながら、ラナは眉を潜めた。この手応えのなさからするに、共感者であることは間違いない。ということは懐古症候群は別にいるのか。


 シェリルではない、誰かが。行き当たった可能性に、ラナはぞっとする。




 背に鋭い痛みが走ったのは、その時だった。




「っ――!?」

「あぁ、ごめん。うまく加減ができなかったな」


 焼けるような痛みにラナが上げた悲鳴はしかし、背後から何者かに口をふさがれたせいで音にならない。


 感情を抑えた低い声に混乱する間にも、ラナは床に倒された。なんとか身を捩って顔を向ける。けれどそれが精一杯だ。強襲者はラナに馬乗りになり、耳元に短剣を突き立てる。


 ラナは息を呑んだ。


 黒灰色の髪の少年が、自分を見下ろし剣呑な眼差しを送っている。


「――久しぶりだね、ラナ」

「……エ、ド」

「その呼び方も懐かしい」軽やかな口調で言いながら、エドは短剣に手を伸ばした。「それで? 十年前のこともきちんと覚えていてくれてる?」


 ラナは押し黙った。言われるがまま、ざっと音を立てて故郷の記憶が蘇る。


 冬の森。夜を裂く松明の炎。養父と自分を狙った追手は例外なく絶命した。そうして自分たちは逃げてきた。親友だった彼を置いて。

 魔術師の存続を望む狂った家に取り残されれば、彼がどうなるかは分かりきった事実だったというのに。


 後悔と恐怖からラナは体を震わせた。エドが薄く微笑む。


「……これは幸運」ラナの口元を再び手で覆いながら、エドは短剣を無造作に手放した。「その分だと、忘れてないみたいだ」


 短剣がラナの脇腹を掠めて床に突き立つ。再びの激痛に、彼女はくぐもった悲鳴を上げた。

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