4-1. いいんだよ、これで

「匂うわ」

「は?」


 ベッドに腰掛け日記を書いていたラナは、手を止めて顔を上げた。


 廃ビルでの戦いに天秤屋でのやりとり。濃密すぎる夜は明けてしまえばあっけない。今日も今日とて、夕刻を迎えようとしている娼館には通りから響く車の音と、気だるい空気が流れている。


 その一角、茜色の光が差し込む相部屋で、シェリルが鼻を動かしている。

 ラナは目を瞬き、首を傾げた。


「ええと……シェリル、匂うっていうのは」

「香水ね」緩くまとった踊り子のような服――その肩口を押さえながら、シェリルがずいとラナの首元に顔を寄せた。「……それと、煙草の匂い」


 ぼそと呟かれた言葉に、ラナはぎょっとして身を引く。彼女の膝からノートとペンが音を立てて滑り落ちた。

 シェリルがひょいとラナから身を離す。


「冗談よ」

「……じょ、冗談って」

「だって、あのいけ好かない男とアンタが親子なんて、どうしても思えないんですもの」

「親子だよ」


 ラナは疲れ切って返した。床に落ちたノートとペンを拾いあげる。その間でさえ、シェリルはひどく疑わしげな視線をラナに送っていて、彼女はしぶしぶ付け足した。


「昨日だって、ちょっと話をしてただけさ。本当だよ」

「ふーん?」シェリルはきゅっと目を細めた。「いかにもって感じの言い訳じゃない」

「本当だってば」

「別に何だって良いのよ。ただ、私はそういう関係はどうかしら、って思うだけ」

「そういう関係ってなんだい」


 シェリルは返事の代わりに鼻を一つ鳴らしてみせた。くるりと踵を返し、小さく伸びをしながら向かいのベッドに向かう。


 一体なんだっていうんだ。ラナは彼女の背中に向かって小さく舌を出し、抱えたノートとペンを自分の枕元に突っ込んだ。その代わりに、手探りで枕下に隠していた物を掘り出す。


 真っ先に取り出した懐古時計は服のポケットにしまった。輝石の入った小袋も同じ。昨日シェリルを追いかけるために使った携帯端末は枕の下に戻す。


 そうして最後に取り出したのは、掌にすっぽりと収まるサイズの小箱だ。

 ラナと同じように身支度を整えていたシェリルが呆れたような声を上げた。


「また、そのイヤリングつけるの?」

「……シェリルには関係ないだろ」

「あんたにはもっと明るい色が似合うと思うんだけど。赤とか」

「いいんだよ、これで」蒼玉サファイアのついたイヤリングを指先で撫でながら、ラナは素っ気なく返した。「贈り物なんだから」

「はーん、養父とうさんからもらったってわけ」


 当てこするようなシェリルの声を無視して、ラナはイヤリングをつけた。「それで?」とベッドから立ち上がりながら、シェリルに問う。


「探しにいくのかい、犯人」

「勿論よ」


 にべもなく応じたシェリルは、ラナへ向かって長方形の箱を放り投げた。

 両手で受け止めたラナは、まじまじとそれを見つめる。何かの機械のようだ。大きさは携帯端末ほどだが、その何倍も分厚い。

 自分の前を通り過ぎるシェリルに向かって、ラナは声をかけた。


「なんだい、これ」

「テープレコーダーよ。刑事さんからもらったの。ちょうどいいから、それを持ってて。何か気になることがあったら録音しなさい」

「録音なら携帯端末を使えばいいじゃないか」

「嫌よ。携帯端末なんて、幾らでも不正ができるでしょ」ドアノブに手をかけたシェリルは、首だけ捻って付け足した。「言っておくけど、私はまだ、あんたたちが犯人なんじゃないかって疑ってるんですからね」


 ラナはため息をついた。ポケットにテープレコーダーをしまえば、ずしりと重い。それでも、これしきのことでシェリルが折れるならば安いものだ。そう言い聞かせながら、ラナはシェリルを追いかけて部屋の外に出る。


 甘い香の漂う薄暗い階段を降り、中庭を囲うようにして設けられた廊下に出た。


 吹き抜けの中庭は既に暗く、間接照明がぼんやりと足元を照らしている。見通しの利かぬ暗闇の向こうから、思い出したように少女達の笑い声が響いた。少女達の身につけた装飾品や鎖が擦れて、暗闇に華を添えていく。


 明るさと暗さの混在する奇妙な空気感。その中で薄金色の髪を見かけた気がして、ラナは思わず目を凝らした。


 中庭の端だ。装飾の施された柱に背を預け、アランが泰然と構えている。隣では、ロウガがきょろきょろと道行く少女達に目を向けていた。二人とも煙草を吸っているのだろう。淡い灯火が彼らの口元で揺れる。


 アランが、つと顔を上げた。暗闇で、距離もずいぶんある。だというのに、彼はラナの方へ視線を向け、その唇に笑みを刻む。


 ラナはぱっと目を逸らした。シェリルが呆れたように息をつく。


「ほんっと気障ったらしいんだから」

「そ、んなことは……」


 もごもごと呟きかけて、ラナは我に返った。頭を振って、一つ咳払いをする。


「というか、シェリルこそ刑事さんと話さなくていいのかい? 打ち合わせとか」

「あのボンクラと? 打ち合わせ?」シェリルは目をぐるりと回してみせた。「冗談も休み休み言って。全然笑えないわ」

「……昨日からずっと思ってたけど、君って刑事さんに容赦ないよね……」

「あらやだ。彼が私に釣り合わないだけよ」


 ラナは返答に窮した。確かにそれはそうかもしれない。それと同時にふと思った。どうしてシェリルは、ロウガと行動を共にしているのだろう。


「……あれだわ」


 シェリルの声が硬さを帯びた。ラナは彼女の視線の先を追いかける。


 二人のいる廊下をまっすぐに進むと、娼館の受付がある。そこで何やら話し込んでいる男が見えた。


 パソコンを小脇に抱えたガタイの良い青年だ。オフホワイトのカッターシャツを腕まくりし、紺色ネイビーのズボンをはいていた。

 少なくとも身なりは整っている。妙なところなどない――だというのに、シェリルは足早に歩き始める。ラナは彼女を慌てて追いかけた。


「……シェリル。もしかして、彼が怪しいと思ってる?」


 シェリルは小さく頷いた。


「彼、ここ1ヶ月の間ずっと来てるの」

「それだけで犯人を疑うのもどうかと思うけど……」

「怪しいでしょう。あんなに若いのに、娼館でしょっちゅう遊べるなんて変じゃない」

「まぁそりゃあそうだけど……」ラナは控えめに言葉を付け足した。「でも、何だって疑おうと思えば疑えるじゃないか。彼だって、たまたま金持ちなだけなのかも」

「何事も疑うことからスタートするのよ」


 二人は受付に辿り着いた。さりとて、ここからどうするのだろう。躊躇したラナの足が僅かに鈍る。けれどシェリルの足は止まらない。


 真っ先に気づいたのは、男の相手をしていた受付の少女だ。近づいてくるシェリルに、ほっとしたような顔をして口を開く。


「シェリルさん……ちょうどよかった。いつもご指名頂いてた子が、体調不良で出られなくて」


 少女の窮状を、シェリルは軽く頷いて制した。

 男が振り返る。それに動じること無く、シェリルは男を見上げ、ゆったりと小首をかしげた。

 亜麻色の髪が一房溢れ、首筋をなぞってシェリルの胸元に落ちていく。花の咲くような笑みを浮かべた彼女は、歌うように男へ声をかけた。


「ねぇ、お兄さん。今晩の相手、どうか私に任せていただけないかしら?」

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