9-2. 怖くないよ

「1,2,3,4……5人かぁ。どう思うよ、エド坊」

「別に」

「なんだ、つれないじゃねぇの」


 細身の長剣を構えたまま、マリィがからりと笑う。ラナは胸元の懐古時計をぎゅっと握り、素早く辺りを見回した。魔術協会ソサリエの面々は平静であるように見える。


 汗で湿った手のひらを、ラナは何度も服の裾で拭った。こうなる可能性は確かにあったはずじゃないか。それに気づけなかった自分が悪い。乾いた喉で何とか息を吸う。座り込みそうになるのを必死に耐える。


 マリィの隣で、エドは床を見つめたまま微動だにしなかった。彼は何を考えているのだろう。


「ず、随分余裕じゃないか」


 口火を切ったのはヴィンスだった。祭祀服カソックを揺らし、一歩前に踏み出す。小石のような物を右手でつまんだ彼は、口元を歪めた。


「に、2対5だ。そ、そちらの不利は目に見えているな」

「不利? まぁそうさなぁ……でもあんた達全員がここにいるわけじゃないだろ」


 マリィはにこりと笑って、顎をしゃくってみせた。示された方角はラナ達の右手。壁に嵌められたデジタル時計が「19:23」を示す。


「あと47分35秒ってところかな」


 ラナの傍らで、アイシャがニャン太の灰色の体躯を抱きしめた。


「境界の1時間……ですかにゃ……」

「御名答」マリィは肩をすくめた。「ま、私達的にはさして問題ねぇんだけどな。懐古症候群トロイメライの患者に最後まで堕ちきってもらうのも目的の一つだし。でもあんたらにとっては違う。だろ?」

「させない」


 ラナの声は、自分が思っているよりも随分よく響いた。

 ラナの視界の端で、アランが面白がるように目を光らせる。

 マリィの隣で、エドがゆるりと視線を上げる。

 その中で、ラナはぐっと奥歯を噛み締め学術機関アカデミアを睨みつける。


「――そういうことだよ」


 マリィが目を眇め、駆け出した。


「ラトラナジュ、階段へ走れ!」

「っ……!」


 アランの一喝にラナは駆け出した。その間にもアランの詠唱が響く。


『冠するは風 無垢の輝きを以て荒海を裂け』


 一拍置いて喚び出されたのは疾風。それにしかし、マリィは口元に笑みを刻んで跳躍する。


「遅えっての!」


 マリィが剣の刃に左手をかざす。彼女の長い白コートが翻る。機械じみた女性の声が響く。


形態変化:type 広刃 armis change: Claymore


 機械の駆動音と共に、細身の刃が太く分厚いそれへと変化する。両手で握った大剣を振るい、マリィは疾風を切り裂いた。裂かれた風はそのままエントランスを吹き荒れ、ラナは思わずたたらを踏む。


「ラナ。君は魔術は使わないのか?」

「っ……!」


 頭上から降ってきた冷めた声に、ラナは顔を跳ね上げた。

 エドだ。豹のような仮面を被った彼が、宙から飛び降りてくる。その手の中で短剣の刃が光を弾く。ラナの全身から血の気が引く。


「っ、させませんにゃっ……!」


 振り下ろされたその手を、阻んだのはアイシャだった。すんでのところでラナとエドの間に割って入った彼女は、エドの手首を掴んで地面へ引き倒そうとする。


 アイシャの手を、エドは手首を捻って引き剥がした。身を捩りながら床に着地した彼は、距離を置くように後方へ飛び退る。

 エドはぐるりと短剣を握る手首を回し、次いでラナを庇うようにして立つアイシャを睥睨した。


「一度失敗した行動を、二度も繰り返すのは感心しないな」

「ラナ……先に行ってくださいにゃ」

「でも、アイシャ……!」

「あぁそうか」ラナとアイシャのやりとりを遮るように、エドが一段声を大きくした。その唇の端が、アイシャを見つめて僅かに上がる。「君は魔術を見られたくないんだったな」


 アイシャの肩が震えた。エドが好機とばかりに再び地を蹴る。

 ラナは慌ててアイシャの体を引いた。彼女がラナの方へ倒れ込んでくる。その頭上をエドの刃が通り過ぎる。空振り。だが、彼と入れ替わるようにして迫るのはマリィの剣。


『極夜の天蓋 害意を退け幼子の眠りを護る』


 ヴィンスの声が再び響いた。黒の小石がラナとアイシャを囲うように放たれ、地に落ちる寸前で陣を結ぶ。

 ラナ達を囲うように形成された結界は、夜を溶かし込んだような黒だった。マリィの剣を阻んだ結界が軋む。次いで響くアランの詠唱。


『冠するは雷 怒りを放ち悪しきを裁け』


 白光が世界を塗りつぶした。エドとマリィが思わず飛び退き目元を覆う。

 その最中で、アランがラナの元まで駆け寄ってくる。


「走るぞ、ラトラナジュ」


 澄んだ音を立てて結界が破れた。そこから伸ばされたアランの手を、ラナは迷わず握って立ち上がる。


 二人はそのまま、階段に駆け込んだ。明かりはなく、夜の闇に延々と階段が続いている。

 背後から追いかけてくるのは剣が振るわれる音。それを受け止める澄んだ金属音。時たまに空気が明滅し魔術が使われたことが知れる。

 そして、自分たちの他に足音がもう一つ。


「怖いか」


 微塵も息を乱さぬまま、アランがラナをちらと見て問うた。ラナは首を振る。


「怖くないよ」


 ベルニの『境界の1時間』が迫っている。高らかに告げたマリィの声が蘇った。足止めしてくれているヴィンス達のことも頭をよぎる。そして、マリィの隣に佇んでいた、幼馴染の顔も。


 怖くないだなんて、本当は嘘だ。ラナは息切れしそうになる呼吸を必死で継いだ。胸元で跳ねる懐古時計を触る。それでも、と己自身に強く言い聞かせた。


「ベルニさんを助けなきゃ」

「そうか」

「アラン」


 階段を登りきった。暗い廊下の奥は見通しがきかない。けれど、青い靄が渦巻いているのは見える。

 その先にあるのがなんなのか。誘うようにも見えるそれが罠なのか。湧き上がる疑問を、ラナは一息で押し込めた。背後から迫る足音を頭から追い出し、輝石の魔術師を見上げる。

 金の目をまっすぐに見つめ、ラナはゆっくりと口を動かした。


「私が、ベルニさんを治す。だから彼を殺さないで」


 アランは黙した。金の瞳に映る感情は読めない。それでもラナが目をそらさないでいれば、アランが根負けしたように目を閉じる。


「手を出せ。ラトラナジュ」

「これ……」


 ラナが差し出した左手の上に、アランは装飾腕輪レースブレスレットから外した宝石を載せた。数は三つ。ラナにそれを握らせ、アランはそのまま彼女の手の甲に口づける。


「っ……」


 思わず首をすくめるラナの中で、ぱちんと、何かが外れる音がした。同時に手の中に握っていた懐古時計が僅かに熱を帯びる。


「さぁラトラナジュ。君の枷は外された」どこか歌うように呟いたアランは、唇の端に笑みを刻んだ。「そして今や、君は輝石を持っている。それぞれの石の役割は覚えているな?」

「うん」ラナは一つ頷き、宝石をぎゅっと握った。「ありがとう、アラン」

「礼には及ばないさ」


 アランが肩をすくめる。それにラナは微笑み、青い靄に向かって一歩踏み出した。

 ぐるんと視界が歪む。顔をしかめて目を閉じ、ラナが再び目を開いた時には世界が一変している。


 辺り一面に青が立ち込めていた。靄のようにも波のようにも見えるそれは、音もなく静かに揺れ動く。


 傍にいたはずのアランの姿はない。思わず彼の名を呼びそうになったラナはぎゅっと唇を噛む。

 大丈夫。胸中で言い聞かせ、輝石をズボンのポケットに押し込んだラナは歩きだした。


 少しばかり進んだところで、景色が変わる。靄の中に幾つものパネルが並んでいた。まるで展覧会の会場が、そのまま靄に取り込まれたかのようだった。

 幾つかのパネルを見回ったラナは眉をひそめる。

 どれも同じだ。青一色で塗られた絵。試みに指先で触れてみれば、どの絵も確かな手応えがある。


「――あぁ、君がこっちに来たのか」


 不意に、背後から冷めた声がした。ラナは青の滲む指先をぎゅっと握りしめる。少しばかり乱れそうになった呼吸を深く吐き、ゆっくりと彼女は振り返った。


「それはこっちの台詞だよ、エド」

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