9-1. それじゃあ改めて自己紹介といこうか

 砕けやすい輝石は細かな破片となり広範囲に散る。ゆえに喚び出される魔術も広範囲へ影響する。


 同じ輝石でも色の濃い石ほど、喚び出される魔術の純度も高くなる。炎であれば、より高温に。水であれば、より純水に。


 天然石と人工石。単純な威力で言えば、天然石の方が強い。けれど、天然石が高価であることを考えれば人工石を使うことにもメリットがある。



「熱心だな」


 苦笑交じりの声をかけられて、ラナはノートの上で動かしていたペンを止めた。顔を上げれば、入り口からアランが近づいてくるのが見える。


 ラナの部屋には、正午過ぎの気だるい陽光が差し込んでいた。開け放たれた窓からは熱を孕んだ夏風が入る。今日はこの夏一番の暑さでしょう。そう告げるラジオの電源を、ラナは片手で切った。


「この三日間、あんたが教えてくれたことを忘れないように、と思って」アランの着ているシャツの白が眩しい。それに目を細めながら、ラナは肩をすくめた。「やっとあんたが教えてくれたんだから」

「ふむ? これまでも輝石に関する授業はしていたはずだが?」

「実戦向きじゃなかっただろ」

「何事も基礎が重要なんだ、ラトラナジュ」

「応用に取り組むからこそ、基礎の重要性が再確認できるんですよ? 先生」

「なるほどな」おどけるラナに、アランはひょいと両の眉を上げた。「だが、あくまでも護身のためのものだということを忘れないように」


 時計台の鐘が鳴り始めた。昼でも食べようと立ち上がったラナの名を、アランが呼ぶ。振り返れば、彼はじっとラナを見つめていた。


「束ぬことを聞きたいんだが」

「なんだい? アラン」

「君はまだ服を買ってないのか」


 藪から棒の質問に、ラナは怪訝な顔をしてアランを見上げた。

 長袖のワイシャツにスラックス。この暑さの中でも、汗一つかかずに服をきっちり着込んだ男は、ラナを上から下まで見やった後、顎に手を当てた。


「その服、三日前も着ていただろう」

「これしかないんだから、仕方ないだろ。大丈夫だよ、ちゃんと洗濯してるし」白のブラウスに黒のズボン。改めて己の服を見やった後、ラナはじろりとアランを睨んだ。「というか、よく私が同じ服着てるって分かるね?」

「他ならぬ君のことだ。分からないはずがない」

「変態」

「愛しの君」


 アランは嘆息し、身を折った。たじろぐラナの両肩に手を置く。


「次の休日にでも服を買いに行こうじゃないか。金の心配なら無用だ。俺が幾らでも払うさ」

「いいよ、別に。困ってないし」そこで一階から電話の呼出音が聞こえ、ラナは幸いとばかりにアランの手を払い除けた。「電話だ。ちょっと出てくる」

「ラトラナジュ」

「服! 買うとしても自分で選ぶから! 勝手に選ばないでおくれよ!」


 アランに念押しして、ラナは駆け出す。階段を駆け下り、入り口近くの小さな部屋に飛び込んだ。

 タチアナの家に行ってから、かれこれ三日だ。ずっと待ちわびていた電話を、ラナは意気揚々と取り上げる。


「もしも、」

「やぁやぁやぁ、教会のお嬢さん! 元気にしてたか!」


 男の上機嫌な声が響く。その大声に、ラナは思わず顔をしかめて受話器を耳から離した。

 最初に電話をよこした時とは大違いだ。内心で呆れながら、ラナはゆっくりと言葉を続ける。


「その声……ベルニさんですよね?」

「あぁそうさ! いやあ、あんたを是非とも展覧会に招待したくてな!」

「展覧会って」一体ベルニは何を言っているのだろう。ラナは眉を潜めた。「ええと……でも、元々の依頼は呪いの絵を何とかして欲しいってことでしたよね?」

「あぁいいんだ、呪いの話は。そんなことより展覧会だよ。ルベール展覧会。時計台で開かれる絵画展だ。本開場は4日後なんだがな。なにせ俺ほどの才能を持った男の絵だ。誰にも邪魔されずにゆっくり鑑賞したいだろうと思ってな。特別に掛け合って君を招待することに成功したというわけだ! 時間は今日の夜7時。時計台が閉館してからだ。あぁもちろん、知人友人恋人、思いつく限り連れてきたまえ!」

「ちょ、ちょっと! 待ってください!」

「なんだね」

「あの、ベルニさん。ちゃんとタチアナさんから伝言を受け取ってますよね?」


 ベルニの声がぴたりと止んだ。タチアナ。荒い息の間に、男は小さく呟く。


 不意に静かになった受話器の先から、人々の行き交う足音がした。ワックスのかけられた床を踏む靴音。とぎれとぎれにアナウンスの声も聞こえる。それは女性の声で、何か型通りの文句を読み上げている。


 なにかの待合室だろうか。それも結構な人が集まる……公共の場。そう思ったところで、何故かひどく嫌な予感がした。


「ベルニさん」ラナは受話器を持ったまま前のめりになった。「待ってください。あんた今、どこにいるんです?」

「…………」


 返事の代わりに通話が切れた。規則的に響く電子音がざらりとラナの耳につく。


「ラトラナジュ」アランが大股で近づいてくるのが見えた。金の目は物憂げに眇められている。「今の電話はベルニという男からだな?」


 その声に、先程までの甘さはない。ラナが何を話していたのか見抜いているようだ。

 ラナの脳裏に、砕けた楔石スフェーンが狼の魔物に突き刺さる光景がさっとよぎった。

 違う。あぁならないようにって思ったんだろう。怯みそうになる己を叱咤し、ラナは受話器を握りしめて口を開いた。


*****



 昼間の熱気を残したまま、サブリエの街は夜を迎えた。額にうっすらと浮かぶ汗をぬぐって、ラナは建物の影から向かいの通りへ目をやる。


 そびえたつのは時計台だ。日中は観光スポットとして賑わう場所も、閉館時間を迎えた今は人通りがない。等間隔で地面に埋まった照明ライトが、煉瓦造の壁面を照らす。明かりが届かぬ建物の大半は闇に沈んでいた。その先端で、巨大な時計盤が濁った黄色の光を散らす。


 時計の長針が音もなく動いた。午後七時を告げる鐘の音が響き始める。約束の時間に、ラナの体が自然と固くなる。


「な、何事も計画性だ」


 と、そこでラナの頭上から上機嫌な声が響いた。首をすくめるようにしてラナは顔を上げる。


「ヴィ、ヴィンスさん……いきなり話さないでくださいよ」


 ラナが控えめに諌めれば、身を離したヴィンスがにこりと笑った。さすがの彼も暑いのか、祭祀服カソックを袖までまくり、首元のボタンを一つ開けている。


「こ、これはすまない」長い前髪を揺らしてヴィンスは口早に言う。「だ、だが、君の初仕事なんだ。し、失敗のないよう、わ、我々がフォローせねば」

「俺だけで十分なんだが」


 ヴィンスの背後に立ったアランが不機嫌そうに呻く。

 それに軽やかな声を上げて笑ったのは、彼の隣に立ったエドナだった。


「エセ魔術師がよく言うじゃない」


 きつく結い上げられた金髪に、豊満な胸が収められた黒スーツ。いつもの通りに隙一つない格好をしたエドナは、銀縁眼鏡の奥で榛色ヘーゼルナッツの目を光らせた。


「神父様がわざわざ出向いてくださってるのよ? 地に伏し、涙して感謝すべきだわ」

「さすがは何百という悪魔と乱交騒ぎを起こした魔女様だ」アランが金の目をすいと細めた。「随分と言葉の意味合いが違って聞こえる」

「あらあら。昔のことをいつまでも引きずってる男は嫌われるわよ? 成金詐欺野郎」

「あ、あー……ふ、二人とも」ヴィンスが咳払いをし、控えめに声を上げた。「い、言い争いはそれくらいにしたまえ。も、もう仕事は始まってるんだ」


 ヴィンスの声はしかし、睨み合うアランとエドナには届いていないようだ。ヴィンスが唇を引き結んで胃の辺りを擦る。それにラナはため息をつく。


 ベルニを助けたい。電話を受けた後、ラナがアランに相談したのが事の始まりだった。当然彼は渋った。渋ったのだが、その現場にヴィンスが通りがかったことで状況が一変した。

 君の能力を試す良い機会だ。満面の笑みを浮かべたヴィンスは、ラナの手を取り何度も頷いた。なに、心配は要らない。俺たちが十全に君を支援しよう。


 そうして、魔術協会ソサリエの面々が集合することになった。一人一人は実力者だ。そのはずだ。だというのに、どうしてこうも不安になるのか。

 ラナは額へ手を当てる。その隣で、ニャン太がラナの服の袖をちょいちょいと引いた。


「だ、大丈夫ですかにゃ」ニャン太の両手を器用に動かし、アイシャが気遣わしげに首を傾けた。「緊張しているんですかにゃ?」

「いや緊張っていうか……この状況が……」

「いつもこうですにゃ。気にしない方が良いですにゃ」

「いつもって……」


 それならいっそ、一人で来た方が良かったんじゃないか。ラナが引きつった笑みを浮かべた、その時だった。


 時計台の方から軋んだ音が聞こえる。ラナは弾かれたように振り返った。

 正面入口から人が出てくるのが見える。くたびれたスーツを脇に抱えた小太りな男だ。入り口の壁面に嵌ったパネルに何かをかざす。電子音が響き、男は閉ざされた扉に手をかけた。何度か手を動かし扉が閉まっていることを確認した彼は、ふらりと通りへ向かって歩き出す。


「ラナ、どうしましたにゃ?」

「ちょっと行ってくる」


 自分の袖を握るニャン太を引き剥がし、ラナは駆け出した。男が緩慢な動作でズボンのポケットにカードを突っ込む。それを確認しながら、ゆっくりと歩を緩め、男の背後から自然な動作で近づく。


「ねぇ、ちょっとそこのお兄さん」


 そっと声をかけた。男が肩を跳ね上がらせて振り返る。その目がラナの姿を認めた。けれど彼が驚くよりも先に、ラナは素早く距離を詰める。


「夜分にすまないね」四十代、平社員、身なりには気を使っていない。そこから導き出される男の嗜好を類推しながら、ラナはにこりと微笑む。「でも少しお尋ねしたいことがあって」

「は? 何だお前、どこから」

「時計台のことだよ。開館時間は終わってしまったのかい?」


 ラナは、やや強引に男の手を取った。腰を僅かに折り、男の顔を下から覗き込む。黒灰色の髪を揺らし、ラナは首を傾げた。汗ばんだ首筋が男の目に晒される。

 男の喉がゆっくりと動いた。


「お、終わってるに決まってるだろう」忙しなく目を動かした男は、ゆっくりと口を動かせた。「あ、あそこは六時までなんだ」

「でもお兄さんは今出てきた」

「俺は職員なんだよ。今やっと仕事が終わったところだ」

「そうなのかい? それじゃあ、困ったな」


 ラナは眉を下げた。そっと男のスボンのポケットに手を伸ばしながら、物憂げにため息をつく。


「あの中に家の鍵を忘れてしまったんだ。このままじゃ家に入れない」

「はぁ? 家の鍵、なんて……」

「宿をとるような金もないんだよ」ラナは伏し目がちに男を見やり、顔を寄せる。男の手をぎゅっと握る。「分かるだろう……? このままじゃ今日は野宿だ……どこかに部屋を貸してくれる優しいお兄さんがいれば話は別だけれど……」


 男が鼻の穴を膨らませた。それを見やりながら、ラナは彼のポケットからカードを引き抜く。男が半開きの唇を震わせる。

 じゃあ。そう男が言いさした、その瞬間に彼は崩れ落ちた。


「見せつけてくれるじゃあないか、ラトラナジュ」


 足音ともに男の背後からアランが現れた。小太りの男を気絶させた彼は、口元に引きつった笑みを浮かべている。


「あんた達が忙しそうだったからだろ」全く笑っていない金の目に気付いていないふりをして、ラナは手の中のカードをひらりと振った。「これくらい私にだってできる」

「……安易に身売りをするような真似はやめろと言ったはずだが?」

「ご心配なく。引き際は心得てるよ、アラン・スミシー」


 目元を引きつらせるアランの隣を通り過ぎ、ラナは時計台の正面入口に向かった。年月を感じさせる木造の扉はぴったりと閉ざされている。

 ヴィンス達が近づいてくるのを尻目に、ラナはカードを壁に嵌められたパネルにかざした。小さな電子音と共に、扉の鍵が外れる。


 ラナ達は時計台の中に入った。

 閉館後も冷房が効いているのか、暗いエントランスはひやりと冷たい。等間隔に並ぶ窓からは、外にある照明の明かりがぼんやりと届く。

 ラナは頭上へ目をやった。果ての知れない天井の奥から、歯車が軋む音が降ってくる。


「一般人が立ち入れるのは3階までだったか」


 アランの声に、ヴィンスが頷く。懐から取り出した端末を操作して明かりをつけた彼は、柱に張られた案内板を照らした。


「る、ルベール展覧会は例年、2階で行われていたはずだ。み、右奥にある階段から上がれるはず」

「ねーぇ、神父様。せっかくなら、階段じゃなくて昇降機エレベーターを使いましょ?」

「そ、それはおすすめできない、エドナ。え、エレベーターは密室なんだ。ま、万が一、襲撃を受けたらどうする?」


 ヴィンス達のやりとりを聞きながら、ラナは階段に向かって歩き始めた。アイシャが銀髪を揺らしてラナの後をついてくる。


「上に行くんですかにゃ?」

「うん。約束の時間も過ぎてるし、急がないと」ラナは肩をすくめた。「ニャン太とアイシャはここで待っててもいいよ? ベルニに会って、治すだけなら私一人でもできるもの」

「んにゃにゃ……でも、単独行動は危険ですにゃ。暗くて見通しも悪いですしにゃ」

「どこかに明かりのスイッチがあるはずさ。まずは」


 時計台の内部に明かりが灯ったのは、その時だった。

 暗闇が消え、室内が光であふれる。射るような眩しさにラナは思わず目を細めた。その耳に届く、何かが空を切る音。そして。


『悠久のとりで 王去りし後もそのを護る』


 ヴィンスの鋭い声が響いた。金属同士の何かがかちあう音がする。そこでラナは目を見開く。


 自分へ向かって振り下ろされた長剣が、薄い膜に阻まれて弾き返されていた。剣を握っているのは女だ。腰まで届く長い金髪を宙に遊ばせた彼女は、ラナと目があうなり、にっと笑う。


 時間にして、一瞬。

 アランが放った炎を、彼女は後方に飛び退いて避ける。


「いやー、幼馴染ちゃんが来るのは想定してたんだけどなー」

「……油断しすぎなんでしょう。先輩が」


 真っ白なコートをはためかせて、女が地面に降り立つ。それに応じたのは、奥から姿を現した少年だった。

 女と同じような白い服を着ている。髪は黒灰色、肌は褐色。

 見間違えようもない人物に、ラナは唇を震わせた。


「どう、して……」

「ほいほい、それじゃあ改めて自己紹介といこうか」


 ラナの声に少年は目をそらし、女は笑う。そして彼女は、剣の切っ先をラナに向けた。


学術機関アカデミア生体工学研究室所属、マリィ・スカーレットおよびエドワード・リンネウスだ。どうぞよろしく、魔術協会の新米ちゃん」

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