8. これが、誰かを守りたい理由なんだと思う


 何事も形から入るのが大切なのよ。いつだったかのシェリルの言葉を思い出しながら、ラナは自身の部屋を見回した。


 窓辺に置いたラジオは、巷を騒がせている連続殺人事件のニュースを淡々と吐き出している。そのラジオのすぐそば、テーブルの上に置かれた平皿からは、作ったばかりのスープが微かな湯気を立てていた。別の皿にはパンが一つずつ。きちんと整えたベッドの上には、タチアナと共に描いた絵が入った包みが置かれている。


 大丈夫。ラナは己に言い聞かせ、胸に手を当てた。準備はできた。やることはやった。

 折よく、ラジオからギターの柔らかな音色が流れ始める。包み込むような優しい曲に耳を澄ませ、ラナは深呼吸をする。胸元で静かに、懐古時計が時を刻んでいる。


 教会の一階から物音が聞こえたのはその時だ。

 ラナはぱちりと目を開いた。もう一度呼吸を整え、ラジオの電源を切って部屋を出る。


 教会の軋む階段を駆け下り、入り口にたどり着いた。

 ちょうど入ってきたのは、祭祀服カソックをまとったヴィンスだ。そしてその後ろ、ちらと見えた薄金色の髪と紺青色ダークブルーのスーツ。その先に見える装飾腕輪レースブレスレット

 ラナは息急き切って、その腕を掴む。


「っ、アラン……!」


 名前を呼んでアランを見上げる。ラナを見下ろす金の目からは、相変わらず感情が読み取れない。

 びびっちゃだめだ。ラナは己に言い聞かせ、何度か唇を舌で舐める。ちゃんと、彼と向き合わなくちゃ。そのために準備したんだから。

 ぎゅっとスーツを掴む手に力を込め、ラナは身を乗り出した。


「ご飯、食べたかい?」

「夕食のことか?」ラナの問いに、アランが柳眉をひそめた。「いいや、まだだが」

「だったらちょうどいい」ラナは強引にアランの腕を引きながら、不思議そうな顔をするヴィンスに頭を下げた。「ごめんなさい、ヴィンスさん。ちょっとアランを借ります……!」

 

 ラトラナジュ、とアランが戸惑ったような声を上げる。それを無視し、ラナはアランを引きずるようにして自分の部屋に導いた。

 片手で扉を開けて、アランを連れ込む。


「これは……」


 彼が息を飲む。それを好意的と捉えるべきか否か。不安を押し殺し、ラナはなんでもない風を装いながら、彼をテーブルまで連れて行った。


「スープ、用意したんだ。お腹が空いてるかと思って」そこまで言いさして、ラナは慌てて付け足した。「も、もちろん、これだけじゃ足りないっていうのは分かってるよ! ただ、私の手持ちで買える限界がこれで……だからお腹いっぱいにならないかもしれないけどさ……!」


 アランが無言でテーブルの上に置かれたスプーンを取り上げた。スープをすくい、口に運ぶ。


「……薄い」

「え」


 アランがぽつりと呟いた言葉に、ラナは顔を青ざめさせた。慌ててスープを飲んでみる。

 ほんの少しの塩気と、かぼちゃの甘みが広がった。味見をした時と何ら変わりがない。ラナは眉を潜めた。問題はないはず、なのだけれど。


 と、アランがくつりと喉を鳴らした。

 見上げれば、彼はおかしそうに目を細めている。


「君が作ってくれたのか?」

「そう、だけど……」アランの優しい声にしかし、ラナは肩を落とした。「でも、あんたが不味いって言うんなら意味がない……」

「意味がないはずがない。これは俺の問題だし、君が気に病むようなことはなにもないさ」

「でも」

「ラトラナジュ」


 やんわり諌める声とともに、アランがラナと視線を合わせるように跪いた。


「ありがとう。俺のために作ってくれて。だが、一体何故こんなことを?」


 金の目はまっすぐだ。ああそうだ。この目が見たかったんだ。ラナは体の力をゆるゆると抜きながら、小さく首を横に振る。


「話したい、ことがあって」

「ふむ?」

「その……」


 なんとか唾を飲み込み、ラナはちらとアランを見やった。


「昨日は、助けてくれてありがとう。でも……たとえアラン、あんたに嫌われようと」胸がほんの少し痛む。それに耐えて、ラナは無理矢理に言葉を続けた。「やっぱり私は誰かを助けることを、やめたくない」


 遠く、時計台の鐘の音が聞こえる。窓からの風が二人の間の空気をかき混ぜる。

 静かな世界で、ややあってからアランが口を開いた。


「聞かせてくれ。どうして君は、そこまでして誰かを守ろうとする?」

「……昔の話をしても、いいかい」


 アランが頷く。それを視界の端に納め、ラナは目を伏せた。


「養い親がいたんだ。とてもいい人だった。自分の子供じゃない私を、まるで自分の子供みたいに可愛がってくれた人だった」


 そっと切り出す。頭の中を今朝の夢がさっとよぎった。冬の森。冷たい空気。夜を蝕む松明の灯り。目の前で飛び散った鮮血。

 そして。


「……でも、養父さんは殺された。私の目の前で。その時から、思い出せないんだ。養父さんの顔が。あんなに大切で、大好きだったのに」


 ラナは小さく身震いする。


 悲しくて、苦しい。幼い頃の自分は、たしかにそう思っていたはずだった。けれどそれさえ、今は自信がない。顔を覚えていないだけで、これほど感情が希薄になるのかと思った。そんな自分が嫌で、だからこそせめて声だけは忘れないでいようと、折に触れて養父の言葉を思い出すようにしていた。


 けれどそれも逆なのかもしれない。

 本当は養父のことなどどうでもよかったのではないか。そもそも養父との生活は確かにあったのだろうか。そう疑ってしまう自分が嫌いで、その疑念が真実であったらどうしようと思うと怖くて。


「……私は、誰にも死んでほしくない。あんな思いはしたくないんだ。もう誰も忘れたくない」


 目を閉じて首を振る。何度か呼吸をし、ラナは胸元の懐古時計をぎゅっと握った。


「……こんな気持ちを、だから、誰にも、味わってほしくないんだ。これが、誰かを守りたい理由なんだと思う」


 少しばかりの沈黙の後、アランはそっと目を閉じた。


「……そうか。それが……」

「馬鹿らしいと、思うかい?」


 ラナが恐る恐る尋ねる。アランは首を横に振った。瞼を上げる。

 暗闇の中で、薄金色の瞳が輝いた。それがあまりにも綺麗で、思わず見とれたラナの頬を、彼が苦笑いとともに撫でる。


「そんな顔をするな、ラトラナジュ」アランは目を細める。「君は若く、ゆえに愚かだ。けれどちゃんと、自分の考えを持っている」

「なんだい、それ。褒めてないだろう」

「褒めてるさ。君は、俺にちゃんと本心を伝えてくれた。これを嬉しいと言わずして、なんと言えばいいのか」


 アランが身を乗り出す。嫌な感じはしない。怖くもない。暖かな空気の中で、ラナは体の力を抜く。

 ラナを閉じ込めるように、アランが両腕を回した。

 見上げた先で輝く彼の目は、どんな宝石よりも綺麗だと思う。きっときっと、なによりも。

 意味もなく泣きたくなって、だからこそラナは笑った。背伸びをして、彼の頬に触れる。


「アランは、いつだって冷たいね」

「そうか」アランは少しばかり目を伏せ、そっと微笑んだ。ぐっと頬を撫でる手に力がこもる。「ならば暖めてくれるか?」


 ラナはくすくすと笑いながら、絹糸のようなアランの金髪を指に絡ませた。彼の左手がラナの背中に添えられる。装飾腕輪が控えめに鳴る。


 こんな時に何をしなければならないのか、戸惑って頬を染めるような生娘ではないのだ。自分は。これまで気にも留めなかった事実が、ほんの少しラナの胸を刺す。

 アランは、そのことをどう思っているのだろう。鼻先が触れ合う距離で、不意に不安に思って。アランを引き寄せるラナの手が止まって。


 アランが何か眩しいものでも見るかのように目を細めた。迷って止められたラナの手をアランが掴む。ぐいと彼に背中を押される。あ、とラナが思う間にも金の煌めきが迫る。


 アランの唇が、触れた。

 それはけれど、ラナの手の甲に、だった。


「……唇へのキスは、駄目だ。ラトラナジュ」ラナの唇を彼女自身の手で塞ぎ、その上に口づけたアランはどこか寂しげに笑った。「それは、幸せな物語の結末でなくては」

「なんだそれ」


 ラナが思わず吹き出せば、アランが肩をすくめる。


「知らないのか? 王子にかけられた蛙の呪いを解いたのも、千年の眠りについた姫を目覚めさせたのも口づけだ」ラナをそっと離しながら、アランは悪戯っぽく笑った。「口づけは、それほど重要なものなのさ」

「……私はもう、子供じゃないよ」

「もちろん、分かっているとも」


 頬を膨らませるラナに肩をすくめ、アランは視線だけでベッドの上の包みを示した。


「ところでラトラナジュ。あの包みは?」

「……絵だよ。あんたにあげようと思って」

「俺に?」アランは上機嫌に声を上げ、ベッドの端に腰掛けた。「それは嬉しいな。見せてもらっても?」


 誤魔化されているような気がしないでもなかった。それでもアランの頼みを無下に断る気にもなれず、ラナは渋々ベッドの上の包みを持ち上げる。

 絵を取り出してアランの隣に座ろうとすれば、なぜか彼は自身の膝の上を叩いた。


「どうぞ、こちらに。輝石の君ラトラナジュ

「……変態」

「なんとでも」


 眉間に皺を寄せるラナに臆した様子もなく、アランがにこりと笑う。ラナはこれ見よがしにため息をつき、仕方なしと言わんばかりに彼の膝の上に座った。

 アランの両腕がラナを抱きしめるように伸ばされ、ラナの抱えていた絵を持ち上げる。


「良い絵だ。絵を描くのが好きなのか?」

養父とうさんが生きてた頃にはよく描いてたんだ。幼馴染と一緒に」

「そうか」親指の腹で、アランは嬉しげに絵をなぞった。「ところでこのモデルは誰なのかな、愛しい君」

「っ……だ、誰だって良いだろ!」


 耳に吹きかかる声がむず痒い。ラナは真っ赤になった頬を見られないように首を縮こまらせ、誤魔化すように口早に言った。


「というか! そういうアランはどうなんだい」

「俺は、というのは?」

「絵が描けるのか? ってこと!」


 投げやりな問いだったが、アランにとっては意外なものだったらしい。彼は少しばかり黙り込んだ後、そうだな、と呟く。


「絵は……描いたことがないかもしれない」


 ラナはぱちりと目を瞬かせた。ついで、じんわりと笑みをうかべる。


「じゃあ、描いてみなよ。試しにさ」

「描いてみる?」

「そう!」


 ラナは立ち上がった。テーブルの端に置いていたノートとペンを掴み、アランの元へと小走りに戻って差し出す。


「ほら」


 珍しくアランは戸惑っているようだった。ペンを受け取ろうとしない彼に、ラナは上機嫌でペンを押しつける。期待の眼差しを彼に送る。

 手元でくるくるとペンを回した後、アランはおもむろに描き始めた。

 ペンが紙に引っかかる微かな音が響くこと、しばし。

 ラナは眉をひそめた。


「ええと……アラン……?」

「なんだ、ラトラナジュ」

「それは……その……何を描いてるんだい?」

「何って」ペンを止め、アランはラナを見つめた。「君だろう。それ以外に、何を描くものがある?」


 ラナは大きく深呼吸をした。まじまじと紙を見つめる。丸と、棒と、点が二つ……ああそうか、この点が目なのか。ということはこれが足で……この糸くずみたいなのが髪で。

 そこまで考えてラナは耐えきれず、吹き出した。


「……ラトラナジュ」

「っ……ふふ……っ、ごめん……っ!」アランの不機嫌そうな声も珍しい。それでもラナは笑いを収めることができなかった。「だ、だって……! あんたはいつでも完璧なのに、まさかこんな弱点があるとは思わなかったものだから……!」

「弱点」アランが眉を上下させた。ノートを少し離して見つめ、ふむ、と呟き首を微かに傾ける。「そうか、これは君にとってマイナス評価に繋がるような出来なのか」

「マイナス評価とかじゃないけど……うーんそうだな、個性的っていうか……」

「下手くそということだろう?」


 アランは肩をすくめた。絵の描かれたページを破り捨てようとする。

 ラナは慌てて、アランの手を引っ張った。


「ま、待って待って! 笑って悪かったよ! だから破らないで!」


 アランが心底不思議そうにラナを見つめた。


「だがこれでは不完全だろう? 絵が欲しいならば、もっと美しい絵を買おうじゃないか」

「デリカシーがないねえ」ラナは呆れながら、アランの手からノートを奪い取った。彼に消されまいと、そっと胸に抱きしめる。「あんたが描いた絵だからいいんだよ」

「……そうであるというならば、もっと練習して綺麗な絵を贈るさ」

「この絵が、いいんだよ。ああもちろん、練習してくれた絵も見せて欲しいけどさ」


 ことさらゆっくりラナは呟き、アランを見上げて微笑んだ。


「今の、この絵がいいんだ。駄目かい?」

「駄目ではないが」少しばかり困ったようにアランは肩をすくめた。「君も物好きな女だ」

「なんとでもどうぞ」


 戸惑うアランが新鮮で、腕の中の絵がひどく大切で。ラナはまじまじと絵を見つめた後、ぎゅっと腕の中に抱きとめた。





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